NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第245回 「未経験」

By , 2008年11月11日 4:05 PM

人間というものは当然、生物の一種であり、生物界の因果則を超越できる特殊な存在ではない。ただ、種としての人間がおそらく数万年の歴史を通じて蓄積し経験してきた遺伝や文化的伝統なるものが継承され、霊長類としての優位性を保存しているだけだ。「人間は万物の霊長である」として、事実、生物界で食物連鎖でも上位を保ち、生息域でも圧倒的な優位性を維持している。文明の利器を活用し、人類の平安を脅かす脅威を排除し続けている。それらは文明や文化の伝統が脈々と続いているからであろうと思われる。しかし文化的伝統と言っても、人間が社会を構成し、教育によってその伝統を維持・発展し続けてきたからであり、生まれながらの人間が知恵を持っているからではない。生まれたばかりの赤ん坊には、ほとんど人間としての知恵はない。ほとんど唯一の知恵は、母親など乳をくれる人に対してほほ笑むということではないか?可愛らしさを自己演出することによって生き延びる。これはほとんど本能的に知っている知恵のようだ。3歳くらいの幼児まではほとんどこの延長で大人の保護を得て生きていくようである。その後も様々な教育を受けて社会的な知恵を学びながら、自立できるようになるまでは、種としての保護を受けながら生物としての生命を維持していく。

最近の家族を見ているとこどもたちが生まれながらに人間としての知恵を持っているかのように誤解している親が多すぎるように思える。子どもに「勉強をしなさい」と教えるのは良いが、勉強をしないからと言って激しく叱ったり、「うちの子は勉強ができない」と落胆したりするのは早計ではないか。中学や高校で不登校になると特別にできの悪い子のように決めつけてしまうのもおかしいのではないか。高校や大学を出た子が就職しないとすぐに「NEET」だと名指しするのも乱暴なのではないか。我々はそんなに最初から勉強が好きだったり、学校を出たらすぐに働く良い子だったろうか。中学や高校でそんなに毎日学校へ行くのが楽しかっただろうか。もちろん楽しいこともあったし、嫌なこともあった。たまにはずる休みしてしまいたかったこともあった。ずる休みをしてしまうと翌日から先生に問い詰められるのがいやで、ついついさぼりつづけ、不登校になってしまったのではないか。高校を中退してしまったら、なぜすぐに働きに行かなければならないのだろうか。親はそれらのことの理由など説明せずに「それが当たり前だから」と言う。「当たり前」とは何なのだろうか。

今の親たちが若いころ、日本は高度経済成長期と言い、おそらく少年から青年になるころまでに、恐ろしいばかりの経済発展を遂げ、大人になって働き始めた頃にはこの繁栄社会に疑問符を呈することなどできなくなっていた。その‘70年代、時代に疑問符を呈していた「全共闘世代」も連合赤軍事件をはじめ、いわゆる左翼の「暴走と敗北」を眼前にして体制に恭順の意を表明した。のちの「ベルリンの壁崩壊」を含め、社会主義諸国の自壊などの一連の政治的事件の連続の中で人々の意識は恐ろしく保守化していった。左翼の敗北の中で、はじめから保守的な人々やノンポリティークな人々、いわゆる進歩的な思想に興味があった人々も、自分は勇気がなくて体制に『否(ノン)』と言えなかっただけなのに、最初から体制派であるかのような顔をしたり、左翼が敗北するのは最初から分かっていたかのような顔をして生き延びてきた人が多いのだ。それはまだ許せるとして、そうしたしたり顔や満足面が増長して人間や人類の能力に対する過信にまで及んでいるのではないか。他の生命体に対する暴虐の限りを尽くした人類の横暴、それは虐げられた世界の人民に対するアメリカの傲慢にも似て、それでも人類は、アメリカはそれにふさわしい報いも受けず、ぬくぬくとした繁栄を楽しんでいる。人類は、アメリカは神様の特別な庇護を受けた選良ではないのかと錯覚している。つまり、人間は努力をしなくても人類文化を受け継ぎ、発展していけると思っているのではないか。

実はアメリカの経済的優位性や人類文明の優位性も、少し前の時代までの開拓精神や勤勉性に依存していたにすぎないのに、それがまるで天賦の才能であるかのように錯覚し、いつまでも温存されるかのような錯覚に陥っているのではないか。そのことの現れではないかと思うのは子どもの教育である。高度経済成長以後日本は豊かになったし、昔のことを思えば何不自由ない生活を謳歌しているように見える。お金持ちにとってはそうであろうが、これは昔から約束されていた繁栄で、そう簡単に瓦解してしまうようなひ弱なものと思えなくなる。ただ、その繁栄というものが学校教育の成果だとか、学校を卒業すればほとんどの人が失業することもなく、働き続けてきたからだということを知っている。自分たちにとっては自明の事実だから、当然子どもたちについてもそのように考える。同じ人間であり、人間はこれまで繁栄を続けてきたのだから、まるで遺伝子やDNAのように引き継がれていると思っている。

学校へ行くようになると子どもに「勉強しろ」という。勉強するのが当然のように命じる。子どもにとって生まれながらに勉強が好きな子どもなんていない。中学に行き、高校に行くと、毎日学校に行くのが当然のように押しつける。学校にも楽しいこともあるが楽しいことばかりではない。ことに近頃の学校のように、勉強勉強、競争競争ばかりだとうんざりしてしまう。これで卒業まであと何年も学校に通い続けなければならないとすると嫌になる。親にとっては学校に行くのは当たり前のことだと思っているから、学校へ行くのを嫌がるわが子は「異常だ」と映る。

それで高校を卒業することになると、大学に行くのか、就職するのかを迫る。大学に行っても勉強が難しくなるのはわかるが、何を勉強するのか、なぜ勉強しなければいけないのかが分からない。まして就職など。働かなければならない意味が分からない。大人にとっては働かなければ給料がもらえない。給料がなければ生きていけない。と至極当然のことのように思っているが、子どもにとってはそんなことはない。親が働いていて、飢えたことなんて経験もないのだから当然である。人間というのは案外経験したことしかわからないものである。経験していなくても分かるはずだというのは人間の傲慢である。人間は家畜やペットなど、他の動物よりも強いと思っている。本当にそう思っているなら、外で出会った動物と対決してみるといい。犬でも猫でも馬でも牛でも、あなたに簡単に殺されるような動物など一匹もいないはずである。

2008.11.11.

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