NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第246回 「暴 走」

By , 2008年11月22日 4:12 PM

11月10日千葉県香取市で軽トラックが1人の青年をはねて逃走した。このニュースで運転していた19歳の少年の「誰でもよかった」という証言を聞いた時私は衝撃を受けた。「誰でもよかった」とは無差別殺人であの秋葉原や八王子事件でも取り上げられたいまわしい言葉である。衝撃を受けたのは「誰でもよかった」の言葉ではない。犯人の少年は父親の土木工務店に勤めていた。仕事のことで父親に叱られ、父親が怖かったという少年は「誰でもよい」から車で人をはねて殺そうと思ったというのだ。派遣社員だった秋葉原事件の加藤被告は、大量殺人を犯した。無差別殺人を正当化する理屈はどこにもない。しかし派遣社員として抑圧されてきて怒りを爆発させた加藤被告には、多くの共感メッセージが寄せられた。行為に同意したのではない。自分たちも一歩間違えば同じような行為をしたかもしれないという怒りに対する理解であった。この欄でも「直言曲言第233回派遣」で加藤の行為に私なりの理解を示したつもりだ。秋葉原や他の事件でもそうだがマスコミはこうした事件に走った青年の心情には少しも理解を示そうとせず、ただ「無差別殺人」の悲惨さだけを伝えた。今回の事件でも「誰でもよかった」という少年の声をとらえて過去の「無差別殺人」と同じ扱いをしようとした。

少年は父親にどのような怒られ方をしていたのか知らない。「誰でもよいから引き殺したかった」というほどよほどの怒りに燃えていたのだろう。真偽のほどは明らかではないがテレビの報道では父親が怖かったと伝えられていた。「無差別殺人」というほどに自分を見失ってしまうなど、どれほどの恐さなどであろうか。ひどく殴られたのであろうか、それは死の恐怖を味わうほどのものであったのか。どんな言葉でののしられたのか。その後の続報では犯人の父親の暴力などの話はない。

この手の「無差別殺人」などの話を聞くと、引きこもりの若者のことを思ってしまう。引きこもりの親たちは、わが子がいつかこんな無差別殺人に走ってしまうのではないかとびくびく恐れている。引きこもっている本人も社会不信に満ちていて、自分に対する抑制心がどこ迄利かせられるか分からない。「このままでは無差別殺人を犯しかねない。だから今のうちに私を殺してくれ」と親に迫る。近頃は無差別殺人事件が多いので、相談にきた親からこの言葉を聞くことが多い。言われた親の困惑と絶望はどれほどのものだろう。私たちならある程度距離を置いて客観的にもみられるが、親にしてみればわが子が殺人を犯すのも自殺するのもあり得ないこととは思えず恐ろしい思いをしているだろう。

引きこもりの子は社会適応が難しく、中でも就職問題にてこずって引きこもりを長引かせてしまうものだ。この犯人の少年が引きこもりかどうかは触れられていないのでわからないが、父親の会社に就職して働いている以上結果的には引きこもりではない。恵まれた環境にあるといえるだろう。引きこもりの子も含めて同じことなのだが、社会不信・人間不信が根底にあるからなのか、大人たちが話しかけてもこたえようとしない。特に自分の生きざまに否定的な意見を持っている大人の話しかけには応じない。これは若いころの私にも経験のあることだからよくわかる。私はコミュニケーションについて強い関心を持っていたのだが、そのコミュニケーションが通じないことを「ディス・コミュニケーション」(コミュニケーションが通じないこと)という造語を使って、積極的に評価したりしていた。つまり世間一般では、コミュニケーションが通じることやそのための努力を無条件に「善」なるものとしてあがめていたが、ディス・コミュニケーションもまた世代や立場の違う人々の間では認められるものであるとの思想であった。「『断絶』の思想」ともいうべきものだが、コミュニケーションを絶対視したり、「話せば分かる」と思っている人たちには理解しがたい思想だろう。当時私は「過激派」とも言われた学生運動にかかわっていたが、左翼思想というよりも若者特有の先鋭思想、孤立していることの栄光を願望している傾向にあった。そのためにあらゆる保守思想や事なかれ主義に抵抗していたのだが、怒りを感じる対象に無抵抗であることなど考えられなかった。私も高齢者と呼ばれる入り口に立って、ずい分穏健になったつもりだが、不公正や不当な取り扱いを受けたり、不正を見ると瞬間湯沸かし器のように怒りだす。

このひき逃げ犯の少年は父親に対する怒りを持ちながら、それを抑えたままで『誰でもよいから』と通行人を引き殺してしまった。もちろん、父親は怖かったのだろうが、その怒りの源泉ともいうべき父親には無抵抗で、全く無関係な人を殺してしまうとは何事だろうか。無差別殺人という少年や若者の暴走が目につくが、どこかに抑圧された怒りがあるのではないか。ストレスがあるのに、それを解放せずにため込んでいるから無差別殺人のような暴力的な暴走になるのではないか。派遣やフリーター問題などの社会的な怒りを正当化するのではないが、たとえ父親であっても不当だと思う怒りを覚えたら抵抗すべきではないか。暴力的な抵抗を勧めるわけではないが、それが家庭内暴力といわれても、怒りを暴発させて「無差別殺人」に走るよりも良いのではないか。「家庭内暴力」について訴える父母は少なくないが、私はそういう父母にも子どもが暴力に訴える前に、子どもの言い分を聞いてやっているか?と聞く。「家庭内暴力」を訴える親は、「家庭内暴力」が悪いことであるということを出発点として、それ以前の「暴力」の理由を問う私に明らかな失望を覚えるらしい。

父親に対し恐さを感じたとしながら「誰でもよいから」と見当はずれの無差別殺人を働いた少年に私は戦時中無差別に中国人を殺した日本兵の姿を見た。中国大陸で新兵に度胸をつけさせるためと称したり、将校が武勇を競ったりするために中国の人民の首をはねたということだ。罪もない中国人の首をはねるなど、勇ましさや武勇などと何の関係もない蛮行だが、こういう行為に及んだ人たちは実は、大変臆病で怒るべきところで怒れず、反抗すべきところで反抗もできなかった人たちではなかったか。軍国主義下の日本で虐げられ、言うべきことも言えずに抑圧されてきた人が、大陸に来て軍刀を与えられ、無辜(むこ)の人の頸を斬ったのできないか。歴史的事実としては検証不可能であるが、「誰でもよかった」というような無差別殺人の非人間性と照らし合わせれば、類似性・同一性を感じるのは私だけではないだろう。不当な怒りや叱責を受ければ、その当事者に正しく反撃することこそ人間性を維持するための道ではなかろうか。

2008.11.22.

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