NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第217回 「自己規律」

By , 2008年2月9日 11:36 AM

私は高所恐怖症である。昔、結婚したての頃、公団住宅の10階に住んだことがある。引越し直後には窓際に立つことが出来ず、床を腹ばいながら窓に近づいた。ベランダには、永く出ることが出来なかった。最近は高いビルの上層階に昇ることも平気になったが、それも出来るだけ窓際には近寄らないようにしている。高いところで窓などの遮蔽物のないところは敬遠だ。『展望台』などというのも、ところによるがあまり行きたい所ではない。丘の上などで遠景が望める所だと良いが、崖の上で足下の光景が見えるところなど勘弁願いたい。今まで見た中で怖かったのは、北朝鮮のピョンヤンの主体(チュチェ)思想塔の塔屋、スペインのバルセロナのサグラダファミリアである。どちらも吹きっさらしではるか足元に地上が見える。主体思想塔では首に巻いていたマフラーを、サグラダファミリアでは掛けていた眼鏡を落とした。高いところに登ると、足元がぐらつくような気がして動揺してしまうようだ。私には自殺願望などない。しかし、高いところでは足元がぐらついて吸い込まれるような気分になるのだ。

子どもの頃にはつり橋やエレベーターも苦手だった。他人が揺さぶれば別だが、静止しているはずのつり橋でも私が渡ろうとするとゆれだして、やがて大揺れになって手すりにつかまらないと立っていられなくなる。高所恐怖症などと同じで『加速度病』と言うらしい。心理的な恐怖が足元を揺らし、やがてそれが増幅するらしい。いずれにしても、自分自身の内発的な心理症状らしい。建物が崩れたり、つり橋が千切れると言う物質的な不安ではない。自分自身が原因である。私は子どもの頃や若い頃から『キレル』習慣があった。今でも私の持論などを分かっていながら、反論されたりすると激怒することがある。我慢が出来なくなって『キレル』のである。だから『キレル』若者に対し、共感することがある。理屈では説明できないほどのコントロール不可能な怒りなのである。最近は『キレル』と言うのは若者の専売特許ではない。特に60歳以上の人で『キレル』人が増えているという。団塊の世代が定年退職して、それまでサラリーマンとして様々な規律に従っていたのだが、定年になり自由になると反ってガマンしきれなくなった人が多くなったそうだ。だからといって『キレル』事を正当化しているわけではない。

ビルの高層階に立ったりするときには深呼吸をし、内面から発生する心理的な揺れを鎮めるようにしている。人から挑戦的な言葉を受け、怒りがほとばしりそうになる時も心を鎮静させようとしている。心がけとしては『自己規律』に努めている。私と同じような性格の人にもお勧めしたい。建物や他人の所為にするのではなく、自分自身に発する怒りや動揺を抑えなければならない。つまりは自分自身が怖いと言う気持ちである。自分を恐れると言う気持ちをどのように表現するか、永く考えて来た。ひところ流行っていた「自己責任」と言う言葉があるが、これは誰か他人から押し付けられているようで嫌である。本来責任のある立場の人が責任を取らず「自分で責任を取れ」と押しつけているのである。「自主規制」「自己規制」という言葉もある。こちらは他人は介在せず本人自身の問題であるが『規制』という言葉に問題がある。『規制』というと『交通規制』などのように何かを制限する、何かをしないということが前提になる。いろんなことに挑戦したいのに、予め何かをしてはいけないなどということを自分自身に課するのは嫌である。

何も自分に制限しないのでは、先ほども述べたように自分自身の動揺が事態を悪化させたり、キレテしまったりしてよろしくない。自分自身を適当にコントロールする標語として『自己規律』という言葉を思いついた次第である。

『自己規律』略せば『自律』である。『自立』ではない。『自律神経』と言うのは意思的な行動とは別に内臓や血液の流れなどをつかさどる神経のことだが、自律には自己の行動を意思的に律すると言う意味がある。自律と自律神経では意味に差がある。さらに『自律神経失調症』という『病状』 を表す言葉があるが身体的には自律神経が不調で体調などを崩すという意味もあるが、精神的には自分の意志が不明で精神不安定になるという意味がある。唯物論的な解釈をすれば、身体的に不調であるから、精神的にも不安定になると解釈できるが,ストレートには解釈できない曖昧な言葉である。

引きこもりに多い『対人恐怖』や過度な『潔癖症』などは神経症の一種だが、私はこれも『自律神経失調症』の一種であると考えている。こういう症例にはしょっちゅうお目にかかるが、他人が手を触れたものには触(さわ)れないという人が多い。トイレのドアノブや電車のつり革には触れないというのは、何となく分かる気がするが、自分の母親が触れた手すりでもティッシュで吹いてからでないと触れない、などと聞くと『病的』と思わざるを得ない。ただし『病的』といっても病院へ行けば治療できるというものではない。対人関係を改善し、神経症が改善されれば自然に治癒してしまうものである。つまりはこの潔癖症も対象物の問題というよりは、自分自身の神経状態の問題なのである。

対人恐怖でも潔癖症でもそうであるが、症状が表れるのは本人であるが、もちろん自分の意志的な選択ではない。外界や他人の影響で症状が現れる。いわば『他律』的現象である。『他律』というのは『自律』の反対語である。自律神経というのは意思的ではない、内臓などの自然な動きであると書いた。本来『意思』の力で動かせるわけではない『自律神経』だが『自律神経訓練法』というものがある。音や熱などによる刺激を繰り返すことによって反射的に自分の脈拍などをコントロールできるようになる。ある程度習熟すれば、音や熱などの道具を利用しなくても自律訓練は出来る。宗教界の偉人が悟りを開いた境地なども自律訓練ができているといえよう。一種の自己催眠のようなものだが、この自己催眠が私の高所恐怖症や、対人恐怖や潔癖症の克服できるなら歓迎したい。極度に緊張して『あがっ』てしまう人など、例えば大学受験の会場などで緊張を解きほぐすことが出来るなら役に立つだろう。

自律訓練法は医学的にも説明できる。ヨガや仏教の高僧が火炎の上に座しても熱くないのもそのような訓練や修行の賜物であろう。ただし、我慢強い修練を積まず、効果ばかりを自慢するようなのは新興宗教かオカルトの類であることの方が多い。もちろん私はまだそのような秘法は習得していない。自律への強い願望があり、若い頃の一時に比べると自分をコントロールすることがたまには可能になってきた程度である。

2008.02.09.

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