NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第221回 「千の風」

By , 2008年3月17日 11:46 AM

 「私のお墓の前で泣かないでください そこに私はいません 眠ってなんかいません」

ご存知「千の風」の歌い出しである。私はこの歌を初めて聴いた時、衝撃を受けた。テノール歌手・秋川雅史の澄んだ歌声にも驚いたが、歌詞の率直さに驚いた。これはお墓参りなどの宗教的慣行、祖先崇拝思想の否定ではないかと思った。死者を葬り、お墓にお参りするのは日本だけの慣行ではない。仏教だけではなく、キリスト教であろうと何であろうと人類共通の習わしなのである。死者がお墓の中で眠ってなどいないことは、現代人であればだれでも知っているはずである。

お墓の前で死者を悼んで泣くことを否定するなんて、人々が普通にしている霊魂の眠りを否定しているのだろうか。霊魂の存在など私も信じてはいない。私は無神論者であり唯物論者である。無宗教であるが、お墓参りは否定しない。父と母が死んでから、年に5回、お正月、春秋のお彼岸、お盆、それに命日と墓参りは欠かさなかった。脳梗塞になって車いす生活になり、段差のある墓地に行きにくくなったので回数は減ったが、お墓参りは大事な年中行事である。屁理屈を言うわけではないが、死者の霊魂など信じはしないが、亡き父母のことを思い出し、孫にもその気持ちを伝えたり、習わしを教えることは無駄ではないと思っている。

霊魂の否定ではなかった。「千の風」の後半の歌詞。「千の風になって あの大きな空を吹きわたっています」死者の霊はお墓の中で眠っているのでなく、大きな空を飛びまわっているらしい。「留守にしていますよ」ということらしい。真面目に考えればあほらしい。それでも歌の歌詞としてはなかなかのロマンチシズムではないか。私は霊魂の存在など信じないけれど、そうあからさまにお墓まいりを否定されてはかなわない。

私の無神論は両親譲りである。両親ともに身寄りのない、先祖の墓もない暮らしをしていた。父は左翼思想の持主であったが無神論は唯物史観や共産主義とは関係ない。ただの現実主義であったにすぎないと思っている。私の子ども時代は今ではもう考えられないくらいの貧乏暮しをしていた。小学校にも通っていなかった。身の不幸を嘆いて、むしろ神様の存在を願ったくらいだ。夜、空腹で眠れず天井を眺めながら神様が助けてくれることを願った。父も母も不在で心細かった。おそらくどこかに金策に出かけたのだろう。弟妹たちはすでに眠っている。父や母が早く帰ってくることや、学校へ行けるようになること、いろんなことを神様に願った。もちろんそんなことは実現することもなく、いつの間にか眠りについていた。目が覚めると朝になっていて、父母はすでに帰って来ていた。

ありとあらゆることを神に願ったけれど、実現したためしはなかった。神の存在など信じなくなった。大きくなれば「サンタクロースなんていない」っていうことを悟るような自然の成り行きであった。父は33年前に死んだ。母はそれから20年元気に生きて、10年前に83歳で死んだ。母も無宗教であった。「死んでしまえば何もかもなくなるのだから、生きているものだけで楽しくやっていけばよいのだ。」父の死後も母はあっけらかんと言っていた。だけど、私の生活が安定すると墓を作ってくれることを望むようになった。父の7回忌に合わせて、西嶋家の墓というのをはじめて作った。母は楽しそうに子どもたちを連れて墓参りに行った。年に5回も墓参りに行く習慣はその時から母が与えてくれた習慣だ。私の中では無宗教ということと墓参りに行くことは何の矛盾もなく溶け合っていた。

繰り返し言うようだけど、私は最初から無宗教だったわけではない。「神様なんていない!」ということは子ども時代の体験で知っていたけれど「宗教」に触れる機会は多かった。宗教を信じようと思ったことも何度かあった。宗教者は概して人格者だった。「宗教」が間違っているとは思えなかった。仏教にもキリスト教にも触れてみた。キリスト教にはカソリックを含めた4つの宗派に触れた。つまり各派の教会に複数回以上、通ったことがある。ある宗派の牧師は若い知性派であった。私は高校生。彼はもちろん神の存在を主張したが、私の疑問に対して神の存在を証明することも私に信じさせることもできなかった。私は百歩譲って神の存在を認めても良かったが、キリスト教の主張するさまざまなキリストの奇跡というものを信じることができなかった。中でも処刑され、埋葬されたはずのキリストが「復活」したなどとは信じられなかった。キリスト教であれ,仏教であれ、他宗派を否定し、他宗派を信じる人を「不幸になる」と呪ったり、他宗派の教えの非合理性を否定するのは許せなかった。

宗教をすべて否定する気はなかったがキリスト教にはどうしてもなじめなかった。仏教の方がまだましだった。キリスト教の聖書には現代人としてまともに信じる気になれないような奇跡や伝説があふれているが、仏教には比較的それが少ない。イエス・キリストと釈迦の優劣を論じる気はないが、少なくとも宗教として後世にそれを伝えた伝道者の資質の違いはあるようだ。西洋文明の行き詰まりを論じる意見に、東洋哲学の再発見論がある。私はにわかにそれに与するつもりはないが、仏教思想を東洋哲学とはいうがキリスト教のことを西洋哲学の神髄とは言わないようである。

私が最近気に入っているTVコマーシャルがある。老若男女のポートレートが並び、それが上から下へスライドしていき、女子高校生風女性に止まるとナレーションが流れる。「あなたがくれたたくさんの出会いを生きています。」少し間があり「また会いに行くね」と続く。これだけでは何のコマーシャルだかわからないが、最後に社名とクレジットが表示される。「墓碑・墓石」の会社である。最後にジングル(サウンドロゴ)が入って「forever communication 」とはいる。ここで墓石のコマーシャルだとわかり「また会いに行くね」とは彼女の両親または祖父母への墓参りだということが分かる。私は私の死後、孫娘に墓参りをして欲しいとは思っていない。しかし、生きている現在、私の死後孫娘が墓参りをしてくれると想像することはなかなか楽しいことである。その時、孫娘が「たくさんの出会いをありがとう」と思ってくれるなら、娘から孫へと命の伝達ができたと私は満足するだろう。もちろん満足するのは死後の私ではなく、生きている現在の私である。

2008.03.17.

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