直言曲言 第177回 「生への執着」
子どもの頃、大晦日(みそか)の夜やお祭りの夜などに、夜更かしして起きていると、『子どもは早く寝なさい』などと叱られたことはないだろうか。今夜は何か楽しいことが起きそうな気がして、早く眠るのが惜しい。いや自分が眠ってしまってから、楽しいことが起きてしまうのは何だか悔しいのだ。眠い目をこすりながらおきている。覚醒(かくせい、めざめていること)への執着である。覚醒への執着と『生への執着』は似ている。生は一度きりのものだが、私のように62歳にもなるとそれほど恐ろしいものではなくなる。生きていることはすばらしいことだが、生きている上での喜びとか新しい発見とかたいていのことは経験してきたと思う。ただ、死は私という存在そのものの消滅を意味し、家族や友人やその他の知り合いからも次第に忘れられ、私という人間が存在していたということもやがては痕跡を失ってしまうだろう。淋しいことである。自分が眠ってしまってから、何か楽しいことが起きるのではないかと思う気持ちに似ている。
生きていることはすばらしいことだが、悲しい、苦しいことも多くある。若いうちにも、死んでしまいたいほどの苦しい経験をすることもある。だけど、多くの人は生は一回きりでかけがえのないものであることを知っているし、めったなことで自殺などしない。しかしこの国では年間3万人以上の人が自殺をするというし、最近ではいじめを受けて自殺をしてしまう若い人もいるようである。
いじめられて自殺をするということ自体認めがたい。いじめはもちろん卑劣な行為であり許しがたいことである。しかしいじめは競争社会で抑圧された弱者が、より弱いものを抑圧しようとする行為で、閉鎖的な競争社会特有の行為である。村八分なども『村』という閉鎖社会だからこそ成立する行為である。閉鎖社会を飛び出してしまえば成立しない。クラスや小さなグループを飛び越えて、いじめを外部社会に告発してしまえばいじめは納まる。あるいはクラス替えや転校をしてしまえば、いじめっ子はもう追ってくることは出来ない。教師や親はその閉鎖社会から救い出せばよいのだが、それが出来ずに他の先生や教育委員会のせいにしてしまう。自殺をする子の気持ちはどうだろう。閉鎖社会をかけがいのないものだと思っているために耐えられなくなるのだろうが『死』というものをそれほど軽々しく思っているわけではないだろう。『生』と『死』は表裏一体のものである。『生』が大切なものであるから『死』を恐れるのである。
最近文部科学省宛に自殺予告の手紙を出す子がいて、その後を追うような模倣者が追随した。案の定、文科省もマスコミも大騒ぎをして、さぞ手紙を出した子も満足しているのだろう。追随した方の子にしても、周囲が大騒ぎをするからこそ真似をして見せるのである。死は他人を大騒ぎさせるためのものではないだろう。自殺をする子のいじめが大したことではないだろうとは思わないが、死を誇示するようなやり方は、本当に死を惜しむような気持ちにはなれない。いずれにしても、安易に死を 選び取ってしまう背景には生の軽視の風潮があるように思えてならない。
いじめではないらしいが19歳と20歳の女子大生の心中や17歳の女子高生の飛び降り自殺など自殺の報があいついでいる。中高年の自殺も深刻だが、若い人の自殺には我慢がならない。中高年の自殺が理由や動機に理解できる点があると肯定するわけではないが、若い人の自殺の多くは感傷的で刹那的で衝動的な感じがしてならない。
死というものが一度きりで、やり直しの利かない人生だということは判っているはずなのにどうしてそんなに安易に死を選んでしまうのだろうか。私自身の経験や心境を参考に考えてみよう。若い頃には、様々な苦しい出来事に出会うことも多い。ほとんどの出来事が人生で初めての辛い出来事であるのも当たり前である。真面目な思索が哲学的な死の選択に至ってしまうこともある。しかし生と死の一回性を思い、生の後には必ず死が巡ってくることを思えば死を急ぐ気にはならないはずである。死を選ぶ前に、生を充分に生きたのか自らに問いかけてみれば自明ではないのか。生への執着というものがあるはずである。
12歳の頃、私は既に同世代の友達に比べてはるかに多くの小説や物語を読んでいた。しかし、私は学校には行っていず、学校に行くことに憧れ、向学心に燃えていた。15歳の頃、私は既に飢えというものから解放され、その気になればいつでもアンパンを買って食べることも出来、学校食堂でもそもそした衣ばかりの多い天ぷらうどんも食べることが出来た。しかし血の滴るようなビーフステーキを腹いっぱい食べた経験はなく、美味しい懐石料理屋 や世界の三大珍味などというものを食べた経験もなかった。それほど大げさなものでなくても、白いご飯を良く味わってゆっくりと食べる習慣もなく、その歓びも知らなかった。青年期の私はただ空腹を満たすためだけにがつがつと食事をしていたと思う。20歳の頃、私はまだ恋を知らなかった。初恋らしきものや片思いの経験はあったが、現実の恋の相手としての女性を意識したことはなく、やわらかく白い乳房や秘所にこの上なく憧れていた。 だから少々嫌なことがあったからといって『死んでしまおう』なんて思わず、生き延びて人生の快楽を味わいつくすという意欲を持っていた。30歳の頃、私は父を亡くし、前後して初めての子どもを授かった。その頃私は命というものがこの上なく愛しくなって 、ベランダで草花を育てたり、一軒家を持って庭で生き物を育てる夢を持った。35歳になった頃、私は既に北海道から沖縄まで日本中の都道府県を巡り知らないところはなかったが 、海外経験は一度もなかった。学生の頃ある事件の結果、逮捕・起訴され、法廷においても反省の言葉を口にしなかった私は実刑判決を受けた。その後高裁で執行猶予となったが海外旅行などは憚られた。30歳を過ぎて、執行猶予期間が過ぎると、前科者の烙印は消えたのだがお上の許可を得て旅行するなどは拒否をしていた。それでもパリの凱旋門やエッフェル塔を見ずして人生におさらばできるかという気持ちは強かった。中国の草原やヨーロッパの古城をまだ見ていないことに悔いはあった。
簡単に人生を捨ててしまう若い人を見ていると、生きていることの快楽や欲望に鈍感なのではないかと思う。私が考えたような、若い日の憧れや欲望には無縁なのだろうか。人間なのだから、欲望がないはずはないだろう。ひょっとすると幼い頃に親から抑制や禁止の命令ばかり受けて喜びに無関心になってしまったのではないだろうか。
私の今の欲望は、人から見れば馬鹿馬鹿しいようだが、杖や車椅子に頼らず自分の足で広々とした道を歩いてみることだ。
2006.11.10