直言曲言 第167回 「寛容のススメ」
引きこもりに多い習性・性癖のひとつだが、それほど目立つわけでもなく、出現頻度も5割をきる程度と思えるものに「不潔恐怖」というものがある。別名「潔癖性(しょう)」と呼んでも良いが、こう呼ぶと個人の「癖」のようで、そんな癖にまで理由をつけること自体が馬鹿馬鹿しくなってくる。
不潔恐怖の人は、手などを洗い始めると、どれほどきれいに洗っても不十分な気がして、いつまでも洗い続けるというもので、5分、10分と続ける人はざらで、それが毎日続くものだから、洗いすぎて手の皮が破けてきたり、やがて自ら「手を洗う」という行為自体に恐怖感を持ち始めたりする。もちろん手洗いだけでなく、身体の各部であったり入浴であったり、家の中の清拭であったりもする。入浴については、頭や顔、身体と一通り洗ったあとでもまだ洗い足りないような気がして、洗い直し、それを繰り返すことによって入浴時間が2時間にも3時間にも及ぶ。それだけ長時間入浴をしていると当然疲れるので、かえって入浴するのが怖くなり、2週間に1度くらいしか入浴できないという。
こういう「癖」は直接他人に迷惑をかけるものではないので、案外気づかれない。引きこもりではない一般人のなかにも結構いるのである。電車に乗ると、つり革を握れない。握るときにはハンカチできれいに拭かないと握れない。飲食店ではガラスのコップを光にかざして、汚れがついていないか点検する。汚れていれば当然取り替えてもらう。限度を超えると「病気」である。一般人には電車のつり革の『汚れ』など見えない。しかし汚れがないかといえば、断言は出来ないだろう。顕微鏡で見たり、精密な検査をしたら、さまざまな細菌がついているのだろう。気になり始めたらキリがない。空気中の細菌や、体内の細菌もそうである。体内には数億あるいは兆を超える細菌がいるという。もちろん病原菌もいるが、その病原菌と戦っている善玉細菌もいるのである。そんなものを滅菌してしまえば、かえって健康でいることが出来ない。
この『不潔恐怖』という神経症は、他人に目立った迷惑をかけるものではない。また日常生活の上でも他人にはわかりにくい。ニュースタートの寮生活でも、食事の後で、ついうっかり後片付けを頼むことがある。すると、しばらくして気づくとまだ洗い物をしている。丁寧に洗うのは結構なのだが、20分も30分も程度を超えている。最初はよほどきれい好きなのかと思うのだが、楽しんで洗い物をしているふしはない。真剣なのである。『もうその程度で良いよ』と声をかけると、ほっとしたように手を止める。要するに『どこで止めればよいか』分からないのである。
こういう人は、万事に清潔好きなのかと思うとそうではない。自分の部屋は整理整頓をキチンとしているのかと思うとそうとは限らないのである。掃除はしないし、片付け物もしない。荒れ放題の状態。おそらくこれも掃除をし出すとどこで止めればよいのか分からなくなるので、汚れ放題にしているのである。こういう人ほど、本人が知らないうちに母親などが大掃除したりすると激怒する。積み上げた雑誌などを順番道理に『元に戻せ』などと無理難題を吹っかける。
だから『不潔恐怖』には合理的な理由などない。あえて言えば『完全主義』というか、掃除や手洗いの限度が分からない。どこまでも、汚れが残っていそうで止めることができないのである。
親御さんなどからお話を聞いているとき、『不潔恐怖』でいつまでも手洗いをしたり、洗いものをしている人の話を聞くと、私は『完璧』という言葉を思い出す。完璧の『璧(ヘキ)』とは玉(タマ)のことである。山から切り出したきれいな石などを磨いて玉にするのである。完璧なものにするには真球でなければならない。少しでもゆがみがあれば完璧とはいえないのであろう。機械でならともかく、手の技で完全な真球など作るのは困難である。いや困難どころか『不可能』に近いといってよいだろう。『不潔恐怖』や『潔癖症』の人はこの完璧主義ではなかろうか。いくら手を洗ってもどこかに汚れが残っているような気がしてならないのであろう。どこかに残っている汚れを放置してしまう自分が許せないのであろう。
完璧主義の人が「いけない」などといえない。ただ自分がコントロールできず、病的なまでに完璧を求め続けるというのは滑稽である。いや、どこかにそんな完璧主義に陥ってしまった原因があるように思えてならない。おそらく、幼い頃から勉強を強いられ、いくら本人が努力をしても『不十分である』といわれ続けたに違いない。『興味が尽きた』から辞める。『疲れた』から止める。という判断が許されなかったのであろう。だからどこまでやればもう良いという判断が出来なくなったのであろう。
こんな人のこんな癖を直すのはかなり難しい。あえて言えば『ご自分に対してもっと寛容になりなさい』というしかない。これも孤立した自分だけの世界で努力を続けるのでなく他人と交わり、他人のやり方を見て『学ぶ』ほかはない。私が望むのは、他人がそれほど厳格な基準で完璧主義を実行しているはずがない。それを見れば、どの程度で『妥協』すべきなのかが分かるだろうということである。
といっても引きこもりの人がそれほど物分りがよかったり、融通無碍であるとは思っていない。心配なのは『不潔恐怖』の人がその清潔主義を貫徹して、徹底的な完璧主義に陥ってしまうことである。 自分が完璧主義になるのは勝手だが、こういう人は往々にして自分の周囲の他人にも『完璧』を求める。自分が苦労して完璧を貫徹したものだから他人にも容赦がない。人間というもの、それほど完璧主義に徹して生活が出来るものではない。人との交流を求めようとしても、完璧主義であればどうしてもギクシャクしてしまい、結果としてますます人間嫌いとなる。
少々汚れが残っていても、ばい菌がついていても大目に見ればよいではないか?私は吉本新喜劇の池之めだかが周囲から散々いたぶられているのにやおら立ち上がり『今日はもうここら辺で勘弁しといたるわ』と強がりを言ってみせるギャグが好きである。こういうギャグでも言って見せないと、自分がミジメでやりきれないという心境であろう。負け惜しみのギャグでも良いから適当なところで折り合いをつけて自分にも『寛容』になってほしい。そのことが他人にも『寛容』になり、世の中と折り合いをつけていく第一歩になるであろう。
2006.07.25.