NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第168回 「人間旅行」

By , 2006年8月8日 2:58 PM

『デジャ・ヴュ』という言葉を聞いたことがあるだろう。フランス語で『既視感』と訳する。『デジャ』というのは『既に』という意味の副詞、『ヴュ』というのは『ヴォアール(見る)』という動詞の過去分詞。つまり『既に見た(光景)』という意味である。今までこんな光景に出会ったはずはないのに前に見たことのあるような風景や人に会うことである。意識をするかどうかは別にして、誰にでもこんな経験があるらしい。もちろん私にもある。但し子どもの頃の記憶である。夢の中で出会った光景であるのか、それとも現実に出会った光景を夢の中で追体験したのに過ぎないのか、いずれにしても出会ったことがない、出会ったはずがない光景に出会い、出会ったはずがない人に出会うのである。しかもその最中に次に展開する光景が予測できる。こうなるなぁ、と思ったとおりのできごとがおきるのである。

どうやらこの状況は『出会ったはずがない』 という『仮説』が成立するところに意味があるらしい。したがって、今の私のように歳を取り、様々な光景をすでに見た経験があると成立しない『体験』らしい。「デジャ・ヴュ」というのは心理学的体験であるとか、異常心理であるとか言われる。私にはむしろ文学的体験なのではないかと思われる。心理学的体験など思い込みや錯覚にしか過ぎないと考えている私には、この異常体験は『輪廻転生』などの仏教的な人生観の、フランス文学的表現では ないかと思える。 世の中の出来事はすべて、回りまわっての同じことの繰り返しである…。ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)の『怪談』の中のひとつにこんなのがある。

ある男が山道を歩いていた。道端に妙齢の女がうずくまっていた。『急な腹痛でも起こしたのであろう。』と思って歩み寄り、声をかけた。女は振り向いて、顔をあげた。その顔はのっぺらぼう。男は驚いて逃げ出し、一目散に駆け出した。山道を後ろも見ずに走りに走ってついに山を抜けて里に下りた。山の端で一人の鍬を担いだ農夫に出会った。男は息を整えながら山で出会った女ののっぺらぼうの話をした。農夫は振り向くと自分の顔をつるんとなでながら「その顔はこんな顔だったかい?」 振り向いた顔はのっぺらぼう。再び男は逃げ出し。後ろも見ずに走った。ようやく町外れに至って、橋の袂に蕎麦屋の屋台。男はあわてて屋台に駆け込み、のっぺらぼうの話を したが…。

こののっぺらぼうとの出会いが延々と続く。この怪談の優れた点は、繰り返しの怖さと滑稽さにある。子どもたちは、繰り返しの単純さにとっくに気づきながら怖いもの見たさから何度もこの話の続きを聞きたがるのである。小説の細部はうろ覚えで、状況や登場人物は私の創作であるが、あらすじはざっとこんなもの。これも『デジャ・ヴュ』の一種である。

言い古された話であろうが、現代は映像時代。昔なら旅で始めてみた光景でも『絵葉書で見たとおり』とたとえられたが、今ならさしづめ『テレビで見たとおり』となってしまうのであろう。どんなに珍しいところへ出かけたつもりでも、テレビの旅行番組などで一度か二度は見たことのある景色ということになるであろう。今は世界遺産などという、ユネスコ認定の観光資源があり、毎日のようにその映像記録がテレビで放映されている。テレビも多チャンネル時代になり、映像ソフトが不足する時代。人気があって安上がりな映像は観光資源や未知の土地に向かってカメラを回し続けることであるらしい。おかげで、映像ルポルタージュのような番組は大流行。いまどき、探検や冒険などという概念はテレビ局の専売特許のようである。著名な冒険家というのもいるらしいが、彼らとてスポンサーがいなければ 冒険は続けられない。未踏峰であろうと、大秘境であろうと冒険家が到達する先には必ずテレビカメラが待ち構えているのである。

私は大の旅行好きである。30代の頃までは日本中を歩き回った。つまり47都道府県をすべて回った。しかし、事情があり、考えがあって、海外は未体験であった。ある友人が『海外旅行を体験したまえ。海外旅行は良いよ。海外へ行けば日本のよさがわかる。』これは当時流行していた考え方で海外に行かない人は、いかにも『井の中の蛙』かといわんばかりで、当時の私は大いに反発したものだ。しかし40代に入った私は立て続けに海外に出るようになり、それからの約10年で30カ国近くを歩き回ることになる。『愛国者』になるかどうかはともかく、若い人には出来るだけ多くの国を訪ねてほしいし、多くの人に出会ってほしい。しかし単なる観光旅行ではつまらないのではないか。

初めてロンドンを訪れたとき、ウェストミンスターを見たときも、バッキンガムを見たときも『絵葉書で見たことがある』としか思わなかった。パリでエッフェル塔や凱旋門を見たときもそうだ。『絵葉書で見たことがある』どころか、テレビ番組で何度も見ているし、下手をすると凱旋門の壁の穴に棲んでいるゴキブリ君の話まで知っているのである。いっそのこと、そのゴキブリ君に会いに行く旅にした方が意味がある。

これだけ映像が身近な時代になると、ただ著名な景色を見に行くだけのような旅は感動が少なくなる。単なる観光旅行ではなく、様々な『体験』を目的に組み込んだ旅行が増えているようだ。人生を 『旅』にたとえることも多いようだ。人生を旅にたとえるなら、『自叙伝』や『一代記』 のようなものも人生旅行の『旅行記』 のようなものである。

『一代記』を書こうが書くまいが自分の一生の旅行記に魅力的な登場人物は必要である。私は『一代記』はまだ書いていないし、人生もまだ未完であるが、 魅力的な登場人物は既に得ている。でもまだ終幕にかけて何人かの人物が登場するはずだ。父親・母親をはじめとして、そのうちの何人かは既に物故者である。なぜか、そのうちのほとんどの人は頑固者で、自分の節を曲げない人だった。節を曲げないことによって『変人』扱いをされたり、ひどい損を被ったりしたが、そのことについてはなんら気にかけている節はなかった。その人たちが生きている間は友達同士のように付き合ったが、先に死なれてみると『俺の人生の先生、師匠だったなあ』としみじみと思う。人生には、そんな『師匠』が何人かいるものだと思う。『一代記』が200ページの単行本だとすれば、10ページに1人はそんな人物が登場しなければならない。さしづめ20人は登場人物が必要だということになる。

いろんなところに旅行するのは良い。しかし、絵葉書のコピーやテレビ番組のような映像を残して何になる?人間は一人一人がオリジナリティに満ち溢れている。あなたと出会うことによって、その人はより一層魅力的な人物になっているかも知れない。あなた自身も相手の人の『一代記』において欠くべからざる登場人物であるかもしれない。人生におけるかけがえのない友人の登場は『ニューヨーク編』とか『モスクワ編』のように『大見出し』で区切られて始まるわけではない。あなた自体がうっかりしていれば通り過ぎてしまうような出来事であるかもしれない。

それでは、あなたの大切な人間旅行の一節を大事にお読みください。

2006.08.08.

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