NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第140回 「フリーター」

By , 2005年11月13日 3:53 PM

「直言曲言」を書き始めて5年目になるが『フリーター』というタイトルは初めてである。『フリーター』については余りにも自明のことと思って議論してこなかった。ところが、最近の風潮を見ているとそうではないらしい。われわれは、克服すべきひとつの状態像として『フリーター』という言葉を使ってきた。われわれは「フリーター集団である。」と自称することもある。しかし、決して自慢して『フリーター 』と称しているのではない。むしろ自嘲的に『フリーター 』という言葉を使う。

『フリーター』とは「フリー」(自由:英語)と「アルバイト」(労働:ドイツ語)に「er」をつけた「アルバイター」(和製英語)の合成語である。日本人なら誰でも意味はわかるだろうが、英国人・米国人やドイツ人には意味が通じないだろう。自由労働者と言えば良い意味もないではないが、要するに低賃金で、いつでも首を切れる不安定労働力ということである。つまりはバブル崩壊後、労使関係が圧倒的に労働者に不利になった労働市場において、資本の側が自由にアルバイトを募集し、首を切れる雇用慣行のことである。こんなことが「目標」であるわけがない。しかし最近の『フリーター』の使われ方を見ていると、まるで『フリーター』になるのが目標であるかのようである。

「NEET」や「第三種引きこもり」の立場からみて『フリーター』はアルバイトをしているのであるから「目標」であるそうだ。先般の「カフェ・コモンズ」のオープニングパーティ<NS祭>のティーチ・インでのテーマ「アルバイトすればそれでいいの?」の答えは当然<NO>であると思った。ところが、パネラーとして登場した人々の答え方の大半が<YES>であった。勿論、引きこもりとして家にこもったままよりも、アルバイトをした方がよいという過渡的な意味であろう。しかし、これでは『フリーター』を産み出した現代社会をなんら批判できないではないか?親たちが引きこもっている若者たちに対して「せめて、アルバイトだけでも・・・」という気持ちとなんら変わらないではないか?彼ら(親たち)は「アルバイトをしてくれさえすれば、つまり金さえ稼げれば」それでよいと考えているのだ。

若者たちはアルバイトも出来ないから引きこもっているのだろうか?否、断じて否である。金銭のために意に沿わぬアルバイトをする。それが資本家たちにとって都合のよい、使い捨て労働力や低廉な労働力の調達に役立つような社会システム、そのことへの協力を拒否するからこそ引きこもってきたのではないか?不本意な労働力・使役(使われる)労働力としてではなく、主体的(自律的)労働力として自己確立することが目標なのである。

もうひとつ、引きこもる若者たちには、殆どといってよいほど「人間不信」という神経症が伴う。その「人間不信」を放置したまま、お金のためにアルバイトをすれば、殆ど挫折してしまう。すなわち、職場の人間関係がうまくいかず、アルバイトは数日の試みで終わってしまわざるを得ないのが落ちである。労働とは人間としての共同作業を伴うのが普通である。「人間不信」を残したままではこの共同作業というものが不可能なのである。親たちはお金さえ稼げればよしとしてアルバイトを勧めるが、これではますます「人間不信」を深めるだけではないか?

人間には自分の幸せを追求する権利と能力がある。しかし、自分の幸せのみをすべての判断基準に優先させるような考えかたのことを『利己主義』という。自分は『アルバイト』をする。そして『金を稼ぐ』

『金を稼ぐ』のは自分の幸せを追求する上では必要なことである。しかし、そのことにより、『フリーター』(資本家が安く、首切り自由な労働力を調達する)システムを温存してはならない。『現代人』とはひとつのことには『都合』がよくても、他の一つのことに『都合』が悪ければ目をつむることは出来ない。我々は残念ながら『現代人』であり、『現代人』とは不便な人種なのである。

「大学生」というものは、アルバイトをしても一時的である。卒業したなら定職に就くことが出来る。高卒や高校中退なら生涯『フリーター』である。勿論、高卒時に紹介された就職先に一生勤め続ければ『フリーター』などしなくてよいことになる。しかし、高卒以来一生定職を辞めない人生など、今の時代にありはしない。みんなが何が何でも「大学生」になりたがる理由もそこにある。「大学生」になったからといって、理想の就職が待っているわけではない。大学を卒業して就職をしても、結局退職して『フリーター』人生を送らなければならない人もある。結局、学歴と就職とは関係がないのではないか?
『職業』というものは、人生の大半の時を過ごすものである。人間は『職業』を通じて社会に貢献していくものである。である以上、『職業』は金を稼ぐ手段であるだけではなく、自分の能力や適性を最大限に生かせるものであるべきである。  考え直しても見よう。わずか100年程度前までは、職業といえば第一次産業が普通であった。あるいはその少し前までは、士農工商といった身分差別によって職業は定められているともいえる。学歴競争の最盛期ともいえる今日、今や義務教育の初期に学校の成績が良ければ、『帝国大学』に入ることも出来、国の最高権威としてのお役所に入ることも出来るのだ。義務教育の初期に成績が少し良いなど『塾』に行きさえすればあたりまえである。つまりは親がちょっとした教育費をケチるかどうかの差である。義務教育の初期に金をかけるか、大学を卒業してから良い定職に就くのか、所詮はお金次第と言うわけである。

『フリーター』と言われる身分は、決して目標とすべき身分ではないだろう。あくまでも目標とすべきMissionがあり、それに向かっての過渡的な期間を生き延びるための手段であるはずである。『フリーター』といえども、「接客業」や「清掃業」など各種あり、それ自体侮ったり、差別したりすべき対象ではない。ましてやそれらの職種が低賃金や首切り自由な身分であっても良いはずがない。良い加減なつもりで『フリーター』に甘んじているつもりでは『社会』に害毒を流すのである。

私が自営業というのも、使役(使われる)労働ではなく、自分自身が自分の労働の主役であるべきだと思うからである。これぞMission(ミッション)なのである。 Missionといっても決して高潔な職業のことを言っているのではない。我々は自営業としてのMissionを目指すべきである。

2005.11.13.

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