直言曲言 第139「勇気」
何よりもまずお詫びしなければならないのは、一ヶ月少しに及ぶ不在の通知が遅れたことである。9月27日午後会議中に倒れ、1ヶ月以上入院した。脳梗塞である。最初は会議中に自分の言葉がおかしいのに気が付いたが、脳梗塞だとは分からない。会議に同席していたのが、保健師のスタッフであったのが幸いしたかもしれない。「脳梗塞ではないか?処置は早いほうが良い。」ということで、救急車が呼ばれ、近くの病院に運ばれた。
1ヶ月(現在も入院中である)といえば、かなりの重症・重病である。ところが本人には痛くも痒くもない。左半身不随とかで、体の自由が利かないのと言語不明瞭なだけである。痛みも苦しみもない。しかし体の自由が利かないとは、寝返りが打てない、起き上がれないのである。これほど不自由なことはない。死体同然である。覚悟を決めた。こうなっては医者や看護婦さんの言うなりになるしかない。
病院といえば何しろ、病人の巣であるのだから、死について考えざるを得ない。私も還暦を過ぎた年であり、死について考えて当然である。脳梗塞という高年齢者の死因としてもかなり高い率の病気であるから、死についてもそれなりのリアリティがあって当然であろう。ところが、自分自身脳梗塞になってみて分かったことだが、死に至る病であるとの自覚は全くない。
死とはその瞬間やプロセスへの恐怖ではなく「不在」そのものの恐怖なのである。ある日ある時を境にして、死とは残された人にとって全くの「不在」を意味するのであり、意識や霊魂の存在の有無にかかわらず、それは全くの「不在」なのである。死に至る痛みや苦しみなどは全くないが、「不在」ということだけは分かる。これまでは死に対する恐怖といっても漠然としていて、その瞬間やプロセスに対する恐怖であったが、「不在」が続くことによっていずれは忘れ去られてしまうのではないかという恐怖は初めて味わった。1998年ニュースタート事務局関西の活動を始めて以来、例会・鍋の会とホームページの『直言曲言』だけは欠かしたことがなかった。この不在だけは気になって仕方がなかった。要するに読者の皆様方にこの『直言曲言』を忘れ去られてしまいたくなかったのである。
病気になって初めて味わったということはいくつかある。「寝小便」もそのひとつである。何しろ半身不随なのであるから、立ち上がることもできない。トイレットにも行けない。昼間は車椅子で障害者用トイレットに行く。それでも看護婦か身内の人に抱え上げてもらわないと便座に座れない。夜は尿瓶(しびん)でするしかない。それもナースコールを押し、看護婦さんに来てもらい、尿瓶を股間にあてがってもらうのである。夜中なのであるから、むやみに看護婦さんを呼ぶわけにはいかない。呼んだ以上は何が何でもおしっこをしなければならない。昔からある歌がある。都々逸の節で唄ってほしい。
「寝ていて小便 してみたけれど
起きてするほど 楽じゃない」
尿瓶を当てられ、おしっこをするとなると「勇気」が要るのである。寝小便は子どもの時にしたことがあるかも知れないが覚えていない。物心がついてからはしたことがない。人間は未体験のことや経験の少ないことを初めてするには「勇気」がいるのである。看護婦さんといってもぶすもいれば美人もいる。若い看護婦もいれば、年配の看護婦もいる。せっかく夜中に来てくれるのであるから、若くて美人の看護婦に尿をできるだけ多く持って帰ってもらいたい、と思うのが人情である。ところが、現実にはうまくいかない。いくら気張っても尿瓶に尿は出ない。ベットに横になったまま小便をするという経験がなく、勇気が出ないのである。看護婦は尿瓶を透かしてみて「少ないですね」と馬鹿にする。「畜生、元気な時であれば…」と脂汗が流れるのである。
引きこもりが初めて出てくるときにも「勇気」がいるのではないか?引きこもりがニュースタート・パートナーの訪問を受けて「鍋の会」などに参加が求められる。もちろん、未体験のことであるから、躊躇される。自分なりに参加できない理由を考え出してしまう。 「俺は植木算や鶴亀算はできない。代数を設定して連立方程式にすれば答えはわかる。しかし、解き方がわからない。これではみんなに馬鹿にされるのではないか?」「俺は、今まで他人と一緒に食事をしたことなどない。箸の持ち方がおかしいとみんなに笑われるのではないか?」「鍋の会だって?鍋料理にうどんなどが出てきたらどうするのだ?俺はうどんなど食べたことがない。鼻の穴にうどんを突っ込んだりしたらみんなに笑われるのではないか?」
他人から見ればばかばかしいことでも、本人は大真面目である。真剣に悩んでいる。あるいは鍋の会に出てこられない理由を真剣に考え出そうとしているのである。
「馬っ鹿者!鼻の穴にうどんを突っ込んだりしたら、笑われるどころか、珍しいことが出来る奴だと拍手をされるぞ。あるいはそんなことで笑ってくれるくらいなら吉本志願者は苦労しないぞ。」 とにかく初めての体験というのは、「勇気」がいるものだ。
NSP(ニュースタート・パートナー)の側にしても「勇気」がいるのだ。ほとんど断られるのに決まっている初めての訪問なんて、「勇気」がいるに決まっている。NSPというのは、断られても断られても何回も訪問し、引きこもりの人たちをなんとか鍋の会につなごうとしているのだ。NSPは資格でもなんでもないのだ。ただひたすら、引きこもりの若者たちのことを思って、訪問を繰り返す。いつか誠意が通じることを信じて・・・。これこそ「勇気」のいることなのである。
君たちには経験のないこと、未体験のことが多すぎるに決まっている。大いに勇気を出して初めての体験をこなしていかなくてどうする。人生にはまだまだ未体験のことが多いに決まっている。病気をしたこともないだろう。寝小便をしたこともないだろう。未体験だからと言って「勇気」を奮わず、寝小便をしないことはできないのだ。それでは膀胱炎になって尿毒症になってしまう。未体験だからと言って二の足を踏んで、体験しないことの正当化の理由になどなるだろうか?
2005.11.04.