NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第132回 「病理とその認識」

By , 2005年7月25日 2:44 PM

『引きこもりは病気ではない』と主張し続けている。引きこもりという、若者が社会参加できない状態像を『精神病』と混同し、社会的に隔離してしまおうという傾向に反対するための主張である。この主張が過剰に伝わると、統合失調症の回復期にある患者やその支援者から、病気(精神病)を『差別している』との反論がときどき私のもとに届く。私は『精神病』もまた様々な『社会的ストレス』の産物であるとの認識であり、隔離病棟や薬漬け治療により、人格を否定または抑圧されるべきではないと考えており、『精神病』の差別には加担するつもりはない。ただ統合失調症などの急性期など、自傷他害の危険性のある病症には適切な治療や観察が必要であると認めるだけである。
私の『引きこもり』理解の基本は、おそらく1,000例に近くなった引きこもりとの面接・観察事例の体験から、彼らの大半が共通の『競争社会』における挫折体験を持っており、そのことによる『対人恐怖』『人間不信』を共通要因として『友人拒絶』に陥り、『社会参加』を拒否して、家族に依存した引きこもり生活を続けていることである。しかし、引きこもりのすべてが『社会病理』だけを要因として、個人的な精神・神経病理とは無縁な存在だと考えているわけではない。

おそらくこうした≪病理≫の認識にしても、近頃の日本の『教科書問題』や『靖国問題』をめぐる≪歴史認識≫の問題にしても、歴史そのものの≪認識≫ が100%対立することはありえないと考えている。日本のアジア侵略に端を発する大東亜戦争=太平洋戦争については厳然とした歴史的事実である。ただ年月の経過とともに一部の歴史的事実を隠蔽または歪曲したい人々がいて、≪歴史認識≫を立場の違いだとか、内政干渉だとかという問題にすり替えて誤魔化そうとしているだけである。
『引きこもり』が主として『社会病理』によるものか、あるいは『精神・神経病理』によるものか、大事な認識課題ではあるのだが、とりあえずこの問題は保留しても良い。精神医学の立場にある人々(精神科医)は、基本的にすべての医療課題を医学的に解明しようとする。(一部の英明な精神科医はこの限りにあらず)。医学(西洋医学)は今や最も先端的な自然科学の一つであるから、いわゆる合理的な実験科学でもあり、病因の解明や病理の究明を基礎として臨床的な治療法を開発してきた。

つまりは病気の原因となっている病因を物理的(外科)あるいは化学的(内科)に除去して病気を治そうとしている。しかし、癌を含む一部の難病は病理的に解明できているとは言えず、これらは仕方なく手術で取り除くか抗癌剤等の照射で抑制し、延命治療を行なう。いわゆる対症療法でしかない。再発や転移などの可能性は知られているのだが、それを病理解明によって予防することは出来ていない。

精神医学もまた、病理的解明が最も遅れている分野の一つであり、ある意味では自然科学といえる領域が最も少なく、社会科学やときに人文科学の援用によって、学問としての体裁を辛うじて保っていると言える。その端的な事例は、近頃最高裁の上告審における弁論が再開された『宮崎勤・幼児連続殺人事件』の一審における『精神鑑定』問題である。

ご存知の方も多いだろうが、死刑囚である宮崎勤氏の有罪・無罪を左右する重大な精神鑑定において弁護側・検察側そして裁判所側の鑑定医の意見が3つとも全く対立し、信頼できる結論に至らなかったことである。事実は一つのはずであり、おそらくそれぞれ最高権威を動員しての鑑定で、決定的な対立はありえない。つまりは、鑑定依頼された立場によって、事実はそれぞれ違った様相を呈しているのであり、精神医学とは究極的には自然科学ではないとの証左である。

精神病自体が、精神医学によって解明されていないのである。この地球上に、あるいは宇宙において人知で解明されていないことなど山ほどあるのだから、それ自体は驚くには値しない。人間の知識が全能ではないことの前提にたって、謙虚に受止め、私たちなりの理解を深めていくしかない。引きこもりを含めて、私にとっての人間や社会事象理解の方法論はこうである。事例や事象を掘り下げて、共通点や差異点を洗い出す。そこに現れてくる傾向や因果関係の仮説(『こうではないか?』)を導き出す。この仮説を新しい事例に適応させて、どこまで適応可能かを検証していく。これ自体は、自然科学であろうと社会科学であろうと、当たり前の方法論である。

精神科医は医師であり、国家により認められている資格である。大学を卒業し、医師免許を与えられた時点で、権威が生じる。自分自身を権威と認め無謬性への防衛機能が生じる。実際には医師にも様々な誤診がある。誤診によるものや単純なミスによる医療事故もある。無謬性を守ろうとすれば、自己やミスそのものを隠そうとする。カルテの追跡や他の医師による検証によって、こうした医療事故は簡単に摘発されうる。しかし、精神科の医療はこうした誤診や治療ミスの指摘を受けることが少ない。そもそも自然科学ではないのだから、何が正しくて、何が間違っているのかを特定することが出来ない。

自然科学ではないものの、『医師法』という厳然とした法律により排他的に保護された精神科医というものがいる。私たちは医師ではなく、一般的に『病気』を診断したり、治療することは許されていない。引きこもりが『病気』か『病気ではない』のかは、私たちの活動が社会的に許されているのかの根源に関わる問題である。

野球に例えるなら、精神科医たちは内野や外野を守る正選手である。私たちは、ファウルグランドや外野の外側を守っている。時には野球場の外で、飛んでくるボールを拾っていることもある。フィールド内に飛んでいるボールは正選手に任せる。しかし、ファウルグランドに飛んだボールでも、正選手が捕球しようとしている場合には邪魔をしてはならない。偶々、ファウルグランドに転がったボールでも、医療の分野に任せるべき球はフィールドに投げ返すこともある。

引きこもりと精神病がファウルラインを挟んで、画然と区別されるものであれば問題は扱い易い。私たちもまたライン急襲ヒットのような球を敢えて追おうとなどはしない。しかし内野フィールドに上がったはずの球が、風に流されてファウルグランドに落ちてくる。野球の比喩にこだわりすぎるのも不謹慎であるので、普通の表現に戻せば、親が精神病扱いしていた(本人に内緒で投薬するなど)が、あるとき子どもの正気に気づいて相談に訪れることがある。

相談の多くが、こういうケースであり、多くは数ヵ月後には友だちを得て、元気に社会参加の道を歩き出している。逆のケースもある。明らかに『引きこもり』であり、精神病ではないのに、親の過剰な圧力により、一時的な錯乱状態に陥り、暴力を振るうなど、警察の出動や救急車のお世話になり、精神病院の奥深くに監禁されてしまう例も少なくない。病理の認識は、一つ間違えると、青年を闇に葬ってしまうことがある。そして私たちも慎重な態度を強いられる。

2005.07.25.

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