NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第129回 「原風景と原体験」

By , 2005年6月25日 2:31 PM

人間には記憶の最底辺に残っている視覚体験や行動の知覚というものがある。それを原風景と呼んだり、原体験と呼ぶ。原体験の方は厳密に言えば、最初の行動体験と言うよりも、記憶の一番底に残っている強い印象を受けた体験である場合が多い。人により、それは往々にして辛い体験として記憶に残り、トラウマ(心のけが)として長く記憶に残されることがある。
原風景というのは、必ずしも「良い、悪い」の価値観とは別に心に残された景色の印象のようなもので、どこか懐かしい思い出とともに蘇ってくるものである。よく使われる言葉として『日本人の原風景』というものがある。こんな言葉を使うのは、ほとんどが中高年以上の人であり、暮れなずむ里山の風景、とか『兎追いし彼の山、小鮒釣りし彼の川』、『夕焼け小焼けの赤とんぼ、負われて見たのはいつの日か』と言った風景で、長いこと週刊誌の表紙を飾っていたあの抒情画のようなイメージである。この原風景という言葉の裏には、必ず『失われてしまった原風景』というような文意が隠されていて、都市化や都市開発によって自然に溢れていた<>に対する喪失感と嘆息が聞こえてくるのである。
もちろん、私にもこの原風景という言葉の感覚は良くわかるのである。しかし、私の原風景と言えるものが何であったかと考えると、少し疑問が湧いてくる。辛うじて終戦前の昭和19年に生まれた私には、戦後の復興途中のバラックとともに、豊かな野や山や小川の記憶も残っている。しかし、ものごころがついて、過酷な貧困生活を送った頃の私は、大都市の片隅の<>の中から<>を眺めていた。つまり私には、豊かでのどかな農村と言うのは原風景ではなく『貧困』という『原体験』とともに、ビルが林立し繁栄を謳歌している都市の姿がネガフィルムのように白黒逆転した『原風景』として写っているのである。
私の個人的な体験は別としても、私たちのところに集まる多くの若者は、概ね1970以後の生まれであり、大部分は大都市かその近郊の生まれ、かなり譲っても地方都市の生まれであり、大人や中高年の人たちが言うような『日本の原風景』と言った意識は共有していないのではないか?先日もニュースタートの若者数人に『あなたの原風景とは何か』について質問した。答えはと言うと『原風景』という言葉自体が、田園や里山と言ったイメージを強制するのか、『住宅地の近くに広がる田園』とか『遠くに広がる山並』と言った都市と田園の折衷的な風景を上げる若者が多かった。
それでも同じ住宅地でも『高層住宅の林立』する風景とか、『高速道路や電車の高架が立体的に交差している風景』など、いかにも若者らしい都市的な『原風景』を上げる人もいた。  私にとっては崩れ落ちそうな木造アパートに暮らした底辺のスラムの中で、都市の繁栄を憧れ見ると言った原体験から、都市的な環境や都市の開発風景に対して無原則に肯定的な評価を下してしまう傾向と、50歳を越えて田園的な風景の中に身を置きたいと言う二率背反的な感覚から逃れられない。
若い頃には訳もなく東京という大都市の喧騒の中に暮らすことに憧れていたし、今でも住んでいる高槻市内の空き地に高層のマンションが建ち始めると、なんとなくうきうきした気分にさせられる。たまに離島などに旅行したときに星空に魅了されることもあるが、2泊も3泊も滞在していると、たまらなくネオンの灯る街が恋しくなってしまう。この感覚は、地球環境保全や原風景を守れというような理性的な思考だけでは変えられない。
考えてみれば、団塊の世代以前の中高年世代とは『変化を好む世代』ではなかったか?

それは『変化』というものが概して良い方向への『変化』であるという神話的な思い込みによるものである。貧しさから豊かさへの変化。狭さ(住居)から広さへの変化。未熟から成熟への変化。辺鄙から都市への変化。それは1960年代からほぼ30年にわたって続いた高度経済成長の下で育まれた幻想である。
つまりは30年間の成長繁栄幻想こそが、この日本の原風景を根こそぎ作り変えてきたのである。地価高騰に沸いたバブル期には、都市の片隅の猫の額のような土地まで地上げして改造を試みた。

物を作りかえる行為と言うのは『作為』を前提にして成立する行為である。これは『自然』に任せるのと正反対の営みである。『作為』が成立するには、行為の支点とも言うべき『安定』が必要である。多少歴史的な視点を交えて言うなら、戦後の日本はサンフランシスコ講和条約(1951年)や1960年の日米安保条約の改定を経て高度経済成長の時代に乗り出すのだが、いわば戦後復興の時代を経て、一定の経済的自立の達成の上で『作為』が発動されていく。それまでは戦勝国アメリカを超越的な他者として決定的に依存してきたが、日本独自の視点で、時には日米経済摩擦を乗り越えながら自己像を変化に導いてきた。

その結末が1991年の『バブル崩壊』であるが、そのことの善悪を問うのがこの一文の目的ではない。ただ、がむしゃらな『変化』という『自然』に任せた結果、『作為』を超えた『崩壊』にまで行き着いたのではないかという仮説を提示しておく。

今の若者には、自らの主体性において変化を選び取るような作為が読み取れない。戦後の日本がアメリカに『超越的な他者への決定的な依存』を計ったように、親という『超越的な他者』に決定的に依存しており、自己改造への動機付けも、怒りや反逆すら封印されているのである。若者への多少の同情を込めて分析するなら『超越的な他者』との彼我の力量比較において圧倒的な格差がつけられてしまっているのである。

なぜ親世代と、若者世代にこれほどの力量差がつけられたのか、それは親世代が高度経済成長を通じて、拝金主義に邁進し、欲望の肥大化という『自然』に任せた結果、利己主義の怪物に『変身』した反面、その子息世代には過剰な餌を与えつつも『巣立ち』の技術を提供してこなかった、ひ弱な幼鳥のまま育ててきた結果である。

親たちは、その変化を好む習性を生かして、豊かな自然を人工的な環境に改造してきた。その改造の行き過ぎに気づいて、『原風景』などという言葉を持ち出すが、若者にとっての『原風景』とは既に異なった心象風景である。安全で、食物も豊富な、暖かい部屋から巣立ちさせ、若者たちを荒野に飛び立たせなければ、ついに若者たちは飛ばない鳥になってしまうだろう。

2005.06.25.

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