NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第117回 「地域社会と家族」

By , 2005年2月12日 12:59 PM

地域社会(コミュニティ)とは原始時代から人が形成してきた居住環境の延長にある。人が生存と安全を守るためには、孤立しては暮らしていけない。狩猟や農耕も近隣に暮らす人々の共同作業として行ってきた。やがて工業や商業の分業によって、人々は互いを必要とするようになり、町や村が形成されていった。猛獣や他部族の襲撃から身を守るためにも、地域社会は必要となった。こうした戦いに備えるための武闘集団が形成され、戦闘や統治に専念する武士団とそれを支える納税者の分業も生まれた。

近世になって人口が急増すると、城下町、門前町、港町、宿場町などの都市が形成された。近代、現代になると工業都市や消費都市、さらにはベッドタウンなども生まれた。東京や大阪などの巨大都市(メガロポリス)も生まれた。こうした大都市も実際には、鉄道や自動車などの高速交通手段が発達するまでは、人々の日常的な移動距離(生活圏)はそれほど広がっておらず、ほとんどが徒歩圏で生活をしていた。日常生活に必要なものはほとんどがその徒歩圏(地域社会)で購入することができ、都市部なら酒屋も米屋も八百屋も洋品店も、理髪店も診療所も町内に何軒も店を開いており、農村部なら村の雑貨屋が何でも商っていたり、せいぜいが隣村や少し離れた町に足を伸ばせば、それほど苦労せず購入することができた。

地域社会はさまざまな意味で共助・互助の仕組みを持っていた。隣組、町内会、自治会などと名を変えてきたが、地域社会の中で発生する課題をできるだけ、その内部で解決する仕組みである。消防・防災、防犯、冠婚葬祭、ときには救貧などの慈善活動も地域社会の役割であった。被差別部落や流れ者、あるいは掟破りの者に対する『村八分』も火事と葬式は例外として互助の手が差し伸べられたと言う。 隣組などの互助組織は、軍国主義や警察国家の時代には相互監視や密告奨励など、統治者権力の支配の道具として使われた歴史もある。

いずれにしても、地域社会において人々が密着して暮らし、互いの台所事情までが筒抜けであった時代の話である。近・現代における町内会は教育の普及と歩調をあわせて整備された。都市ではおおむね小学校の通学区が町内会となり、学校からの通達が連絡網を通じて各家庭に配布され、行政からの広報活動もこれでほとんどがこと足りた。高齢化社会で、少子化の現在では考えられないことである。

地域社会(コミュニティ)が解体されていった要因にはさまざまなものがある。①人口移動の変化。農村から都市への人口大移動は工業化に伴うものであり、都市の巨大化が進行した。②交通の変化。鉄道、高速道路、航空機の発達により1日の生活行動圏が飛躍的に拡大した。③住居の変化。団地、マンションなど高層住宅の増加と密閉型構造の住宅増加。④企業化社会。サラリーマン人口の増加によって、企業文化がすべてを支配するようになり、居住地文化が衰退する。⑤ 昼間在宅人口の減少。女性の就業者増加や社会参加により、昼間在宅している人口が減少した。⑥情報の多層化。テレビ、ラジオ、電話、パソコン通信など家庭内や個人が所有する情報端末が増えて、近隣の住民との対話の比重が減少した。

地域社会の解体はさまざまな人間の互助システムを崩壊させた。地域社会とは原始共同体の頃から、人々が生きていく上で必要な共住のシステムを長い時代を通じて構築してきたものである。それを戦後のしかも、高度経済成長期以後の半世紀足らずの間にほとんど跡形もないほどに解体してしまった。マンションや団地などの高層住宅化、頑丈なドア-、精巧な鍵、ドアを開けずとも訪問者の顔が見えたり話ができるインターフォン…これらがまず訪問者を締め出す役割を果たし、結果として核家族を社会から隔離した。

『向こう3軒両隣り』とはご近所の代名詞だが、マンションには『向こう3軒』がない。家族そろってどこかに出かけるときは、こうしたご近所に声を掛けて出かけた。『留守に誰かが訪ねてきたときにはよろしく』という意味であり、防犯への気配りであり、届け物を預かる依頼でもあった。日常こうした交流があることが、互いの家族構成を知り、子どもどうしも遊び友達であり、女どうしが井戸端会議をし、自ずと近隣同士の親しみや信頼感を醸成した。 年頃の娘や息子がいれば、縁談のお節介もし、就職の世話も焼いた。味噌、醤油の貸し借り、葬祭には駆けつけてくれ、やりくり一切を近所の人に任せた。

こう書けば、『なんと前近代的な』と顔をしかめる人もあろう。何しろ引きこもりの中には、近所の人のお節介で好奇心に満ちた視線が辛くて引きこもっている人もある。引きこもりでなくても、田舎の誰一人知らぬ人とていない濃密な人間関係が嫌で、都会に出てきた若者もいる。

都会生活は地域社会が近隣同士で補い合ってやりくりしてきた社会や家庭の機能のほとんどを金で買えるサービスに置き換えた。結婚式や葬式はホテルや結婚式場や葬祭会館によって肩代わりされた。お隣同士で安全を守りあう機能も、監視カメラやオートロックシステムや警備会社のサービスが守るようになった。隣りの家の安全を気に掛けたりするような行為は、お節介どころか下手をすると犯罪行為と間違えられかねない。

プライバシーと称する孤立した人の尊厳が大手を振り、人間への関心や気配りは前近代的な遺物にされている。プライバシーなるものがある程度寛容に流通するのは家族という閉じられた人間関係の中に限定される。 現代においては家族だけが聖域として、人が裸の姿を晒すことのできる空間である。

しかし、この家族でさえ、高度経済成長の末期には解体され、父親や妻や子どもたちと言った単位の個人に分解されつつあった。個室という子ども部屋、個食という個人単位の食事、個電という個人単位の家電製品の所有。現に今も、携帯電話は家族のそれぞれが所有し、個人のプライバシーが主張される。家族の解体に危機を感じた一部の人たちは、家族への回帰を叫んだ。

しかし、人々が人間らしさを実感しながら生きていくには『家族への回帰』では不十分ではないだろうか。家族とは常に過渡的な血縁集団であり、形成されるとともに解体され、再編される運命にある集団である。今ある家族の形態が、このように解体・再編のサイクルを辿らなければ、やがてそれは衰退・滅亡せざるを得ない。

簡単に言うと、子が今ある核家族を離れて新たな家族を形成することによって家族は継承される。 オートロックシステムに象徴される家族を外界から隔離するシステムは、あたかも家族そのものが自閉症のように他人をシャットアウトしている。親や学校の先生以外の大人との対話を閉ざされて育った子どもたちは、人間関係を豊かに結ぶこともできず、友達関係も拒絶して、引きこもる。家族を開いて地域社会(コミュニティ)との融和を目指すことこそ引きこもり予防のための第1歩である。全てを金で買えるシステムに置き換えてはならない。

2005.02.12.

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