直言曲言 第118回 「3つの目標①友だちづくり」
ニュースタート事務局関西では引きこもりからの脱出のために『3つの目標』(①友だちづくり、②家族からの自立、③社会参加)を掲げている。実は千葉のニュースタート事務局本部でも『引きこもり解決の3点セット』として①レンタルお姉さん、②共同生活寮、③仕事体験、をあげておりお気づきの通りこれは『関西』の目標・目的を『手段』として表現しているのであり、同じことを言っている。過去の『直言曲言』を振り返ってみると同様のことは何度も繰り返しているのだが3つの目標そのものには言及していない。しばらくこのシリーズを続けてみようと思う。
実は『友だちづくり』などというものは、わざわざその方法を誰かに教えてもらうようなものでもなければ、まるで集団見合いのように誰かにお膳立てをしてもらって体験するものでもない。誰でも人と友だちになりたいという気持ちを持ってさえいれば≪友だちシグナル≫を発しているものだし、自然に友だちになれる。ところが、私が見てきた数百人の若者の中には、まったくこのシグナルを発していない人もいたし、まず自宅に引きこもってなどいた日にはシグナルなど届くはずも無い。このシグナルを周囲に発信していない人とはどんな人なのだろうか?友だちになりたいと思っていないのだろうか?敢えて断言などする必要も無いのだが、よほどの変わり者でもない限りこんな人などいない。
中には、その『変わり者』が『私です』とか『うちの子です』とか思う人もいるかもしれないが、まずそれは過剰な思い込みと言うものである。シグナルを発信していないのは、友だちになりたいと言う気持ちがないからではなく、シグナルの発信を抑制している何かがあるからである。
まず『他人に迷惑を掛けてはいけない』という現代の過密社会における過剰な道徳規制が邪魔をしている。過密社会では人間としての優しさ、思いやり、親切、助け合いといったものが邪魔になり、サービス(奉仕)は全て金で買うのが常識になっている。金銭でサービスをあがなうという資本主義のルールが人と人とが元来持っていたつながりを断ち切り、人を孤立させている。私生活(プライバシー)は侵すべからざるものとなり、無償で他人の時間や自由や静謐を侵犯してはいけないという意識が『恐怖』感にまで高められている。
これがほとんどの『不安神経症』や『対人恐怖』の原因になっていて≪友だちシグナル≫が発信できない。 もう一つは、いうまでもなく『競争社会』における人間関係の分断である。『競争』そのものは豊かさや文明発展の原動力として、否定し切れないものであるが、その競争も野放しの『弱肉強食』や『優勝劣敗』の放置でなく人間性の尊重という歯止めによって抑制されてきた。
しかし、20世紀後半に起きた社会主義国家の崩壊が、資本主義の『勝利』という驕りを生み、いわゆる自由主義市場における市場競争の称賛から、『競争至上主義』ともいえる風潮を生み出した。これをもっとも野放図に、残酷に展開したのがアメリカなど先進国のマネタリズム(金融資本主義)と、日本や韓国など中進国の幸福獲得競争としての受験戦争である。 学歴獲得の争いの開始は高校、中学、小学校とますます低年齢化し、幼稚園の入試にまで及んでいる。 もちろん、この競争の最初の主役は子どもたちではなく、親でありしかも親の資力・財力までが総動員される。子どもたちは、初めは親たちが始めたゲームの駒に過ぎなかった。
当然だがやがて彼自身がゲームに興味を抱いて主役のように振舞う。受験競争だとて、ゲームの一種だから、まったく面白くないはずはない。ことにゲームに勝ち続けることができれば、なかなかに飽きのこないゲームである。しかし、ゲームには勝ち負けがあるのだから、そのうちに勝ちを続けられなくなる。そして負けを知ったとき、このゲームには陰湿で悪意に満ちた仕掛けがなされていることを知る。すなわち、ゲームを戦っている当事者同士は実は友だちであるはずの仲間であり、彼ら同士の競争意識をあおることこそ、ゲームを永続化するコツであることを…。
子どもたちはそれほど単細胞でもないから、学校の成績をあげるために≪がり勉≫であり続けることは格好良くないことだということを知っている。友だちづきあいも、そこそここなしていかなければならない。ところが親という種族は、例の『競争至上主義』への歯止めをはずされてからは『家族の幸福』を獲得するためには貪欲であり、まるでそれが信念であるかのように幼児性を発揮し、競争から少しでも目を反らそうとする我が子を叱咤する。
現実に、ある女子高生からの手紙で驚いた例だが、受験生活の中でも友だちづきあいを重視しようとする娘に対して母親はいつも言うらしい。『その子は、あなたといるときは遊んでいる振りをしているが、一人になると必死に勉強している。だからその友だちを信用すると、あなたは負けてしまう』と。
別にこの母親が特殊な例だとは思えない。むしろ、ほとんどの親がこうした人間不信を植え付けることによって、我が子の競争意欲を掻き立てようとしているのではないか? 本来、受験勉強というものは若い知識欲をエンジンにして、将来の社会参加に際しての自分の役割探索をハンドルにして行われるものであろう。それがある種のゲーム性を持つ競争として行われることを否定しない。
しかし、その先にある希望や目標を語ることもせず、ただ勝ち負けだけにこだわるのであれば、まるでボクシングでノックアウト寸前に陥っているときにコーナーのセコンドから、相手に対する憎悪や敵愾心だけで戦うことを強いられているボクサーのようにゲームから降りてしまいたい気持ちになるのである。 そのときになって親は初めて気づく。ゲームの主役は親ではなく、リングにいる我が子なのであることを。
しかし、我が子はもう戦う意欲もなく、戦場であるリングそのものに恐怖感を持ち、一刻も早くその場を立ち去りたいと思っている。競争相手のみならず、全ての人間に対する不信感と対人恐怖を隠そうとしない。それが引きこもりのはじめである。 この時期の若者に≪友だちシグナル≫が発信できないのは当然である。 親は我が子が引きこもっていることに気づいて『もう戦わなくてよいのだ』という。
しかし、彼らにとってそんなことを即座に信じることはできない。なぜ、昨日まで戦いを強いられてきた自分が、なぜ今日はもう戦わなくて良いのか?そのことをあなたは説明できるのか?戦いが不毛だというのなら、父親であるあなたはなぜ以前と同様に戦い続けているのか?『競争至上主義』を捨てて、人間らしく生きることを新たな目標に設定できたとき、若者たちは≪友だちシグナル≫ を取り戻すだろう。 2005.02.18.