直言曲言 第115回 「すれ違い」
数年前、上海の街角で絶世の中国美女とすれちがった。モデルのような八頭身、チャコールグレー のようなスーツ姿である。その瞬間、彼女は手を鼻にあてて手鼻をかんだ。勢いよく鼻汁は2メート ルほど飛んで、路上に落ちた。ただ、それだけの話。
大阪市内の地下道。地下鉄を乗降する人で通路は込んでいた。スーツ姿のサラリーマンが一直線 に歩いてくる。私は人の流れに身をまかせながらまっすぐ前を見て歩いていた。前方から来るサラ リーマンがまさかそのまま進んで来て私にぶつかるとは思わなかった。もちろん一言の挨拶も謝罪 もなかった。
つい先日の話。私は自転車に乗って街中を走っていた。曲がり角から出てきた中年男がすれ違っ た。私は自転車のスピードを上げていたわけでもなく、衝突の危険も感じず通り過ぎた。瞬間、男は 『チェッ』と舌打ちをしたのでつい振り返った。それだけのことなのだが、彼は何か不愉快なことが あったのだろうか?
良くあることなのだが、街中ですれ違う人に挨拶をされることがある。言葉を掛け合うほどでもない が、明らかに相手は私のことを知っている様子で、微笑を投げかける。何処で会った人なのか思い 出せず、もちろん名前もわからない。『こんにちは』と言いかけるが言葉にならず、しばらく気になっ ている。妙齢のご婦人の場合は、そのことを忘れるのに時間が掛る。
リサイクルショップの前は大きな幹線道路で、1日に千台以上の自動車が通行する。相手は移動 中の車で、こちらは店番でじっとしているのだから、厳密に言えばすれ違いとは言わないかもしれな い。店のすぐ前に阪急電車の踏み切りがあり、朝夕は『あかずの踏み切り』状態であるから、停止 中の車は暇つぶしにずっとこちら(ショップ)を見ている。ときどき、そんな人が別の機会に徒歩や自 転車で店に寄ってくれる。そんなことがあるものだから、車の中からこちらを見ている人にもつい、 お愛想笑いをしてしまう。
昔、典型的な『すれ違いドラマ』のような『君の名は?』というラジオ・ドラマがあった。(のちに映画に も、テレビドラマにもなった)ラジオ・ドラマの放送時間には銭湯の女湯が空っぽになるというほどの 人気だった。戦争中の空襲の中で出会った男女が、戦後東京の数寄屋橋の上で再開を約束する のだが、すれ違いの連続でなかなかであえないというお話である。今昔の感があるのは、数寄屋橋 という橋は今はもうない(川そのものがないから)し、今の男女ならお互いに携帯電話で連絡しあう ので、こうしたすれ違い話はドラマにもならないだろうと思うことである。
ところで、私自身にもこうしたすれ違い経験はいくつもある。私自身はせっかちなので、待ち合わせ 場所に定刻に行くということがめったにない。遅くとも5分前には現場についていて、早いときは30 分も前からうろうろと待っていて、定刻になる頃には相当いらだっている。待ち合わせる相手にもい ろんなタイプの人がいて、私同様に30分も前から来ている人もいる。5分や10分の遅刻は当たり 前、30分も遅刻してきても、にこっと笑って『ごめん』の一言で済ませる人もいる。こちらは早く来過 ぎていらだっているので、定刻を10分も過ぎると『待ち合わせ場所を間違えたのではないか』と心 配になって来る。駅などでは、反対側の出口と間違えたのではないかとつい、そちら側の様子を見 に行く。遅れてきた人にしてみれば、15分も遅れてきたからその場に私がいないと『帰ってしまった のだ』と納得してしまって、すれ違いになる。こんなケースも携帯電話を誰もが持っている時代では めっきり少なくなった。
リサイクルショップで店番をしていると、たいていは暇なので店の前を通行する人を眺めている。夕 方近くなると、犬に散歩させている人が増える。まず犬同士が立ち止まってあいさつをする。小さな 犬は大きな犬に盛んに吠え掛かる。顔見知りの犬同士は互いに尻尾を振って満身で親愛の情を示 す。初対面の犬同士は尻尾の付け根に鼻を押し付けて、恋愛の対象になるかどうか確かめ合って いるようだ。犬同士が挨拶をし合っていると、飼い主同士もひとこと、ふたこと言葉を交わしあいさつ をしている。知らない人間同士がすれ違っても、こんな風にあいさつをすることはない。
人の心と心のすれ違いもある。男と女、夫と妻、親と子、先生と生徒、そしてレンタルお姉さん(NS P=ニュースタートパートナー)と引きこもりの若者にも…。反目したり、敵対する立場なら心のすれ 違いもしかたがない。しかし、お互いがお互いを尊重したり、愛したりしている場合にもすれ違いは 起きる。どうして、相手の思いやりが心に届かないのだろうか。心のアンテナがしっかりと伸ばされ ていないのではないか?
人と人の議論というのもすれ違ってしまうことが多い。すれ違うというよりも、最初から噛み合ってい ないこともある。よく見ていると論戦のどちらか一方が、真面目に議論する気もなく、自分勝手な理 屈を押し付けている場合が多い。国会論戦でもいっとき、イラクの大量破壊兵器の存在という米軍 の開戦理由について尋ねられたとき小泉純一郎首相は当時まだ逮捕されていなかったフセイン首 相のことを例にあげて『フセイン氏がまだ見つかっていないからといって、フセインがイラクにいない とはいえない。だから大量破壊兵器が見つかっていないからと言って、イラクに大量破壊兵器がな いとはいえない』と言った。まともな議論をする気のない人が、国会のような議論の場にいること自 体が問題だ。
ホームページの掲示板も時には論争の場になる。だれかが新しいスレッド(見出し)を立てて問題提 起をする。2、3の人がレスポンスを繰り返しながら問題が深まりそうになってきたとき、誰かが登場 してきて話題を見当違いの方向に誘導してしまうことがある。せっかくのスレッドが台無しになる。こ れは本当は『すれ違い』と言うよりも『スレ(スレッド)違い』である。
2005.01.28.