NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第121回 「3つの目標③社会参加」

By , 2005年3月24日 2:05 PM

『社会参加』とは人が社会人としてその社会的役割を果たしていくことで、社会人になることそのものを指す。社会人とは、職業を持つ人、つまり働いている人である。このシリーズで『3つの目標』について述べてきたが『①友だちづくり』も『②家族からの自立』もすべてはこの③社会参加(働くこと)のための道のりであり、必要な手順である。

『社会参加』について考える前に『社会』とは何かについてふれておこう。と言っても『社会』について何か新しい定義をしようとか、学問的な解説をしようとするのではない。 『社会』とは人間が集まって構成する集団の概念であり、その大きさとか組織形態についての定義があるわけではない。『地域社会』とか『地球社会』とかその大きさはまちまちであり、『男社会』『大人社会』とか『現代人社会』などの言葉もあるように、それを構成する成員に帰属意識のあるなしも問わない。

いずれにしても、特定の排他的な規定がある場合を除いて『社会』とは人が自動的に所属している集団である。 ところで、ここまでの説明で既に一つ大きな矛盾した表現があることにお気づきであろうか?『人が自動的に(つまり入会とかの手続きを経ずに)所属している集団』であるはずなのに、なぜ『社会人になる』とか『社会参加』という言葉が成立するのか。子どもであろうと、赤ん坊であろうと『人』は自動的に社会人であるはずである。つまり、ここではその排他的な規定である『大人社会』を便宜的に『社会』として表現しているのである。この『大人社会』という言葉も極めて曖昧な表現である。『大人』=『成人』であるとしても、20歳以上なのか18歳以上なのか、高校生や大学生を除くのか、大学院生は社会人なのか、結婚していれば18歳以下でも社会人なのか?

どうやら、便宜的に使われている『社会人』という言葉は、年齢に関係なく≪仕事についている≫人を指すらしいのである。 『仕事についている』人が『社会人』であるのなら、引きこもりやNEETは大人であっても社会人ではないことになる。失業中の人は社会人でないのか、定年引退した人は社会人ではないのか、ここまで考えると『社会人』という言葉そのものが、合理的な定義や検証に耐えられるものでないことがわかる。いずれ廃れていく言葉ではないのか?

『働いていない』からNEETや引きこもりが『社会人』でないとは私は思わない。多数のNEETや引きこもりや失業者を内包しているのが『現代社会』であり、その意味で引きこもりも立派な社会人の一員である。ところが、その当の引きこもり自身の中に『社会人』であることを自覚しない人が多い。『社会人としての自覚』と言っても、難しい覚悟があるとか、責任があるとか言っているのではない。『社会』とは自分が所属している集団であり、自分を取り巻く環境であり、自分自身と切り離して存在するものではない。そのことの自覚がないのである。『社会』そのものが存在することは認めているのだが、どこか自分とは無縁な場所に存在するパブリックなものだと思っている。

こうした考え方を身に付けていることに思い当たる点がある。子どもにとって『社会』とは大人から教え込まれた、どこか脅迫的な『社会規範』なのではなかろうか?道徳とか倫理とか、普通の子どもにはあまり身近ではない、しかし大人になれば身に付けなければいけないと脅迫されるなにものか、そんな得体の知れない『怪物』が『社会』ではないのか?実際には、学校もご近所も、お菓子やゲームを売っているお店も、社会の一部であるのに、どこかに『社会』という別世界があって、いずれ大人になればその『社会』に入っていかなければならないという漠然とした不安が子どもを脅かしているのではないのか?

だから、引きこもりの若者はそれを引きずっていて、自分は未だ『社会』の外にあると考えている。『社会』とは自分には無縁な、外の世界だと考えている。『社会』に入るという考え方の最も基本的なイメージは『就職する』ことで『会社に入る』ことを意味している。就職していない自分は、社会に入っていないものとして『社会』から疎外されている。 『会社』というものは、自分でつくる(設立)することもできるが、就職しようとする人にとっては誰かがつくった既成の秩序であり、入社すればその既成の秩序に従わせられることになる。

これは当然のことなのだが、社会体験の少ない人が社会を恐怖するのと同様に、就職経験のない人にとって他人のつくった既成の秩序は恐怖や懸念の対象であって当然である。私なども、単に小心であったに過ぎないのだが、他人の作った会社に入るのが怖くて、友人と一緒に会社を創設したりしたが、ついに見ず知らずの人の雇われ人にはならずに生涯を過ごしてきた。

引きこもりの若者が、友だちづくりを通じて対人恐怖を克服し、家族からの自立を目指してひとり立ちができるようになれば、次に『社会参加』としての就労を目指すのは当然である。病気などで働けない人や、親が裕福で働く必要のない人は、社会福祉の世話になったり、親に扶養されたり、遺産を引き継いで生きていくこともできるが、大部分の人は働かなくては生きていけない。ここにも述べてきたように、人は生まれながらにして『社会人』であるわけであり、『社会参加』とは特別なことをするわけではない。

ところが『社会』を自分の外に置き、『社会参加』することを特別に勇気のいることのように考えている人は『社会参加』=就職=他人の作った会社に雇われて働くこと=サラリーマンになること、と考えているのではないだろうか?もちろん、サラリーマンになることも可能であり、中にはサラリーマンになることが最も安易な職業選択で、『一生食いっぱぐれがない』と考えている人もいる。高度経済成長期に長くサラリーマンで過ごしてきた、今の引きこもりの親たちの主流を占める考え方である。

若者たちは、当然その親たちの人生観に深く影響され、ほとんどその考え方に支配されている。 しかし、ご存知のように日本は、その人件費高から、企業は生産拠点を中国や東南アジアなど海外に移転し、国内での求人を極限までに減らしている。若者にとって働きの場は、一部のエリート以外はフリーターに甘んじるしかない。引きこもりやNEETの若者の多くが憧れるようなサラリーマン生活は、もはや安易な選択肢ではない。半世紀続いた日本の産業発展と企業社会、その裾野としてのサラリーマンを養う力を残していない。ならば若者は何を目指すべきなのか?

かつてサラリーマンたちが不況や職業生活の行き詰まりを感じたときに選んだのは『脱サラ』である。タクシーの運転手に転じたり、自営業を目指したり、農業に戻ったり…。決して安穏ではなくても、雇われて働くのとは違う、自由と夢や希望を目指した。給料が保証される代わりに、自分自身で価値を生み出し、自分の力で生きていく希望を見つけた。 今、若者たちにそれが問われている。企業社会の終焉が、若者たちに新たな『社会』づくりへの参加が問われている。

2005.03.24.

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