直言曲言 第122回 「経済」
『経済』という言葉は、日常的に使われるが、時によって、あるいは使われ方によって多様な意味性を持つ言葉である。日本語の『経済』とは元々は中国語の『経国済民』を略して英語のeconomyの訳語に当てたとされている。『経国済民』とは国を治め、民を助けるという意味であるから、元々は『政治』のことを指していた。
一般に『経済』と言えば、人間の共同生活の基礎をなす財やサービスの生産・分配・消費とその社会関係の総体を意味している。もっとやさしく言ってしまえば、金銭(貨幣)のやりくりとその仕組みのことである。しかし、この『経済』なるもの、むずかしく言おうとすればいくらでも難しくなる。そもそも経済学なる学問があり、大学には経済学部や経済学科がある。何処の大学の経済学部でも同じようなことを学んでいるのかと思うと、これがとんでもない。経済学の学説の歴史ばかり教えるところもあれば、コンピュータを駆使した近代経済在学や計量経済学を専門にするところがある。
経済学がそんな学問であるとすれば、経済団体とか経済人というのはどんなに難しいことを学んだ人かと思うが、さにあらず、これは単に企業団体や企業の経営者のことを指していて、単にお金儲けのうまい人たちやその団体のことである。そして経済的という言葉は単に節約することや倹約することを指していて、経済学とは何の関係もない、つまらない概念に過ぎない。
ところで財やサービスの生産と分配のシステムには、市場での需要と供給の関係に従って自由な取引に委ねる自由主義経済と、必要に応じて生産し、必要に応じて分配する計画主義経済がある。前者を資本主義といい、後者を社会主義と言ってきた。資本主義においては常に生産は過剰に導かれるが、過剰に生産し過剰に供給する企業が競争に勝ち、資本(利益)を拡大再生産するため、生産手段や技術を革新し、競争を優位に勝ち抜くという傾向を持つ。従って、資本主義においては需要は常に刺激され続けなければならず、市場の拡大が求め続けられる。グローバリズムによって、市場は国家の垣根を越えて世界化していくが、それは先進国による中・後進国に対する経済的侵略の形を取ることになる。
市場が一国の国家内に限られているのであれ、世界が一つの経済圏に統一され世界市場が形成されるとしても、いずれはその市場が成熟し、同じ商品がもうこれ以上は売れない(対前年売上が増加しない)という限界市場がいずれはやってくる。そうなれば経済は成長をやめて、マイナス成長の時代になる。日本の国内市場については、既にそういう時代に達していて、いわゆる内需は頭打ちの時代になっている。日本は豊かになり、いわゆる衣食住と言った基礎的な生活需要は充足している。自動車や家電製品なども、モデルチェンジや新製品の発売に対しても消費者は飛びつくことがなくなった。ここ数年の日本経済の成長部分を支えてきたのはIT業界ではあるが、それもゲームソフトであったり、携帯電話であったり、どちらかと言えば『暇つぶし』商品、少し別な言い方をしても『時間消費型』の商品であり、生産手段や本質的な意味で生活の質の向上に結びつくような商品ではない。日本社会が成熟段階に達し、言い換えれば黄昏段階に達している証でもある。
経済が成長し続けるためには、需要が拡大し続けなければならない。生産が需要を追い越し、在庫が増えてくれば、在庫調整のために企業は生産を縮小する。あるいは倒産企業が出現する。失業者が増え、生活者の所得が低くなるため、物はますます売れなくなる。不況である。在庫調整が進むと、市場では品薄となり物価が持ち直す。これが景気の循環である。
しかし、現在の日本経済は景気の循環論だけでは説明できない。豊かになりすぎた日本は、人件費が高くなりすぎて、企業は人件費の安い海外での生産に切り替えている。慢性的な人余りで、若者は生産現場やそれを支える企業での求人に出会えない。サービス業でのフリーター仕事に甘んじるしかない。フリーターは人件費が安く、常に失業の危機にさらされており旺盛な消費活動の主役、つまり需要の支え手にはなれない。 一世代前を振り返ってみよう。
1970年代、今の引きこもりの若者の親たちが青年であった頃である。日本は高度経済成長の真っ只中である。空前の就職ブーム、求人ブームが続いていた。石油ショック(原油高)やドルショック(円高)が続いたが、日本はまだまだ成長余力を残していた。つまりまだまだ貧しくて、人々は豊かさを求めて消費財を買い求め、車を買い、家を買い、ローンを支払いながら働き続けた。そして30余年が過ぎた。団塊の世代が定年を迎え始め、高齢化社会がやってきた。親たちは、十分に働き、それなりに豊かになった。ローンの残高は減り、生活のゆとりができた。
しかし、子どもが引きこもりとなり、働くことができない。先の不安があるから、贅沢はできない。 高齢化社会と少子化社会。団塊世代が若かった頃は、空前の消費ブームであった。団塊世代が結婚する頃ブライダルブームが起きた。団塊世代が出産年齢に達するとベビーブームが起きた。そのベビーブーマーが結婚年齢に達しているし、出産年齢にも達している。しかしブライダルブームも起きないし、ベビーブームも起きない。彼らは引きこもっている。ブライダルブームやベビーブームが起きないと住宅需要も伸びない。それどころか少子化時代が続くと、住宅はだぶつき気味になる。一人っ子同士が結婚して、一方の親の家を相続するとやがて住み手のいない家が出てくる。日本社会はやがて活力を失い、経済は衰退していくだろう。
別に日本経済の先行きを心配する立場にはないが、団塊世代やその子弟が引きこもりになって、その生活行動が縮小サイクルに入り、経済が停滞していくのには些か憮然たるものがある。資源を無駄遣いし、物を使い捨てし、過労死するまで働いたりする社会は異常である。しかし、その反動で労働を拒絶し、人と人のつながりまで拒否して、守りの経済に専念するのも健全な姿とはいえない。最初に『経済』という言葉を定義したように『人間の共同生活の基礎をなす財やサービスの生産・分配・消費とその社会関係の総体』が経済であるなら、その『共同生活』からの引きこもりは、経済そのものへの不参加を意味する。しかし人が生きている限り、経済活動とは無縁に暮らしていくことはできない。たとえ社会福祉の世話になろうと、親の経済的支援で生きていこうと、経済社会のファクターであることを避けて生きることはできない。
生きていく限り人は財やサービスを消費しているのであり、どこかでその生産に関わりつけを支払うのは人としての務めである。 今の社会の経済活動が、競争至上主義で、人を傷つけずには自分の幸福を手に入れられないという批判は間違っていない。だから競争から降りてしまって、最小限の経済活動しかしない。つまりは、自分は働くことをせずに、親の財産で扶養されながら生きていると言うのが言い訳になるだろうか。引きこもりの若者の多くは、元々働くことが嫌いであったわけではない。むしろ、競争システムを学ぶ学校で、人より多く稼ぐことを目指していた。どこかで挫折をして、どこかで競争社会の残虐さに気づいたのに過ぎない。長距離競走の途中で、疲れ果ててしまい、とても先頭でゴールできない自分に挫折し、競走を中止してしまう姿に似ている。どうして、歩いてでもゴールを目指そうとしないのか?
経済活動とは、人間が生きて行こうとする限り、続けなければならない長距離競走のようなものである。猛スピードで何人もの人を追い抜いていくだけが、人生の本質ではない。最初にゴールのテープを切る人だけが勝利者ではない。長い道のりを走りきった人すべてが勝利の栄冠、人生の栄冠を得る。消費するだけで、生産活動に参加しない人には走る喜びはない。人にどれだけの差をつけられようと、そんなことは関係はない。君には君のコースと栄冠が待っている。競争から降りるな。君の経済活動の主役は君自身である。
2005.04.12.