直言曲言 第120回 「3つの目標②家族からの自立」
孔子の『論語』には『三十而立』(さんじゅうにして立つ)とあり、ここでの『而立』とは単に立つことを意味し、身を立てる、『ひとかどの者になる』ことを言う。『自立』とはひとり立ちすることであり、他人の助けを借りないで生きることである。経済的な意味だけで『自立』という言葉を使うなら、働いてお金を稼ぎ、生きていけるなら経済的『自立』ができていることになる。
けれども人間は社会的動物であり、互いに助け合うことなく一人で生きていくことなどできない。だから厳密な意味では『自立』などにこだわる必要はないのである。それでも、『自立』は必要である。そのことを理解した上で『家族からの自立』の意味を考えてみよう。
『家族』は人間の最低限の経済単位である。男と女が結ばれて、子を生み、協働して育てていく。大家族(親族)や地域社会、さらには国家という枠組みがあるが、家族はそれ以上分解できない(と考えられている)社会的単位である。しかし、夫婦・親子といえどもさらに分解すれば、個人という人間の単位から構成されている。
資本主義社会は究極的には個人の労働力を商品として買い入れる雇用システムによって成立している。農耕社会においては封建的な大家族制が維持されてきたが、工業化が進むにつれて、そのような『大家族』は資本主義的生産様式には適さない制度として、大家族が解体され、核家族化が進行してきた。一方で、労働力再生産の場としての家族は温存され、扶養家族は公認され家族手当が支給されるなど、家族的経営や家族の生存が保証される終身雇用制が敷かれてきた。
しかし、こうした家族的経営も株式会社の存続そのものが危機にさらされるような末期症状を示すようになると、リストラや退職干渉が行われるようになり、不足する労働力は残った社員の長時間労働やコスト格安のフリーターの採用などによって切り抜けられる。時間給千円足らずのフリーター賃金は、もはや家族を養育できるような賃金ではない。企業のほうは既に家族の生活など保証していないのに、家族の側は古い家族システムにしがみついている。それが辛うじて存続可能なのは、中高年層の高度経済成長期におけるストック(貯蓄)や資産処分のおかげである。
ところで家族とは元来、分離・再編されるものであった。旧来の『家』は長子が相続し、次・三男は資産家の場合であっても嫁取りによって『分家』したり、ひとり立ちを余儀なくされる。つまりは、解体され再編を繰り返しながら家族は生き延びていくのである。しかし現実の家族は、核家族として生き延びようとする。核家族の現実的なエージェント(利益代表者)としての母親は、家族の延命を託されている。父親は経済的な延命の代理人に過ぎない。それでせい一杯である。
核家族を延命させるとはどういうことなのか?少子化時代であり、家族を解体せず延命させようとすれば、長子特に長男が家を離れようとする動きに対し、母親は抵抗勢力になりがちである。子ども(男でも女でも)が反抗期や思春期を経て、自然に自立していけばともかく、引きこもったり、パラサイト(寄生)傾向を持っていたりすると、敢えて自立を強いたりせず、核家族の中に囲い込もうとする。解体・再編するのでなく、そのままの形で継続されるということは、新しい家族の形成(結婚)がなされることがなく、やがてその家族は『消滅』を余儀なくされるのである。 いうまでもなく、家族は一旦解体され、結婚による再編がなければ、維持されていかない。家族というより、人類という種が原理的に保存されないことになる。こんなことは自明の理であり、健康な社会に住む、健康な人間であれば、本能的に自覚していて、ある年齢に達すれば子どもは親元を離れて自立していくのである。
それなのに、引きこもりの若者は、お金を稼げない(働けない)からといって、いつまでも親に依存して、親と同居したまま暮らしている。 子どもが働かず、お金がないから自立生活ができない。親は、子どもに働くことは要求するが、自立への道を指し示すことができない。子どもが働かないのは働けないからだという単純な事実に気がつかない。学校で勉強し、成績をあげて、上級の学校へ進むことを要求してきたが、働く人間になれるように教育してきたのか?よい高校、よい大学、よい会社に入れるように勉強をさせてきたのは、実は働かなくても食っていけるように教育してきたのではないのか?汗を流して働くように教育しては来なかったのではないか?
義務教育を終えていない子に、働くことを要求するのは法律違反でさえある。義務教育といっても、中学卒業年齢に達すればその『義務』からは自動的に解放される。しかし、20歳を過ぎても、時に30代に達しても、働くことのできない人がいる。彼らは、実は働くために必要な教育を受けていないのではないだろうか?子どもに働くことを要求する親は反論する。『読み書きはできるし、五体満足で健康なのだから働ける』と。そうではない。働くとは、人と接することである。そのことの教育が決定的に欠如している。親が思う教育とは、人と争い、人を蹴落とし、学歴をつけることであった。その結果、彼らは人を敵視し、人を信じず、人と協調する能力に決定的に欠けている。これでは職場の人間関係になじめず、1週間も続けて働くことはできない。
彼らはそのことをよく知っているからこそ、働きに行くことができず、面接を受けに行くこともできないのである。 自立するということは、実は一人で孤立することではなく、他人と協調出来ることであり、時に他人の助けを求めたり、教えを請うたりできることである。学校の勉強に励むのは悪いことではないが、それだけを至上の価値と教え込まれた若者は、協調したり、助け合ったり、教えあったりする人間としての基本的な能力が欠けている。
そのことを学びなおさなければ、働くこともできなければ、自立することもできない。 親たちは、引きこもりのわが子が『自立』してくれることを望んでいる。多くの親たちは言う。アルバイトであれ何であれ、せめて働いてくれることを熱望する。働くことの必要性は認めるが、働けるようになるためのシステムや教育をなぜ提供しようとしないのか。親からの自立を望むのなら、対人恐怖や人間不信、そして友だちを拒否する心情をなぜ取り除いてやらないのか。
学歴をつけさせるための教育に、巨額で長い投資を続けられる親が、人間としての生きる力をつけさせるための教育になぜこうも冷淡で、熱意を示そうとしないのか。 親からの自立とは、競い合う共同生活としての学校から逃げ帰ってしまった若者たちにもう一度、人間として共生する共同生活を体験させることである。
2005.03.15.