直言曲言 第82回 「人生デザイン」
絵を描こうとする.油彩でも水彩でも….いきなりカンバスに絵の具を塗り始める人もいるだろうが,普通はまずデッサンから始める.木炭や鉛筆を使って,描こうとするもののあらましの図柄を画面上に線描する.素描とも言う.思春期というのは人生のデッサン段階ではないかと思う.人間はもちろん生まれたときから,人生を歩み始めている.しかしある段階までは,親が勝手に子どもの人生をデザインしようとすることがあっても,本人自身の意思で人生をデザインしているわけではない.
乳幼児の段階では,通常では親かその他の保護者の養育抜きでは生き延びることは出来ない.小学校に進む頃になれば,さまざまな知恵が働くようになっており,場合によっては子捨てなどによって浮浪児になっても生きていくことはできる.しかし,今の日本ではこの年齢の子どもが,一人で生きていることは難しい.そんな事例があれば,おそらく社会的に放置されることがないだろうから.
人間の知能は生理学的にはほぼ12歳で大人と同等の機能を備えるといわれている.自立を模索し始めるのは14~15歳の反抗期の頃である.学齢で言えば中学2~3年.まだ義務教育の期間である.とはいえ,高校進学率は95%を超えており,自分で自分がどんな人生を歩もうとするのかを決めることなどほとんど出来ていない.この段階ではとりあえず高校に進学し,高校の成績次第では大学か専門学校に進学しよう.『職業選択はその後』というのがほとんどである.
しかし,この思春期前期とも言うべき反抗期は感受性の強い時代であり,子ども達が自分の人生について,まだ夢のような漠然としたイメージであるが,デッサンをし始める時期である.この時期までは,何となく親や学校の教師の言うまま,あるいはそれは言葉に出して語られなくても,「高校に行き,大学に行き,良い会社に入る」のが人生の定められたコースだと思い込まされている.それはそれで良いとしても,どんな高校に行き,どんな大学に行き,どんな職業に就くのか,よほど鈍感な子でない限り,考え始めるだろう.ここから先は私の仮説であり,引きこもりの若者の多くがこの15から16歳の時期に引きこもり始めるのである.
この年齢の若者の心を占領してしまう重要なテーマは2つある.ひとつは自分が『どのような人生を生きていくべきか』という問題であり,もうひとつは『性への関心』,もっと端的に言えば,内的な性衝動との闘いである.後者については対応の仕方はさらに2つのパターンに分かれそうだ.ひとつは簡単に異性の友人を作ってセックスパートナーにしてしまうこと.高校生にもなれば,これはそれ程困難なことでもなく,また今どきそれほど珍しいことでもない.珍しくはないが,まだまだそれは少数派である.
大半の若い男女はまだまだ性衝動を異性への神秘的尊崇や恋愛感情と切り離して考えるほど打算的たりえず,自らの欲望を制御しようとする.『禁欲』的であることに精神的価値を置いているほどではないのだが,禁欲せざるを得ない現実が『禁欲』的思考に向わせると言って良いだろう.自分を高めるといった単純な『上昇志向』は,案外こうしたより良いセックスパートナーを選び取る条件形成が心理的力動となって維持されることが多い.
かくして青年男女の多くは,外的制約を内的衝動に転換することによって『禁欲』化し,他方外的に要求される学校における『偏差値』競争の押し付けに迎合して,受験戦争に参戦していくのである.ここまでは,「性の解放」など多少の社会風俗的な環境変化はあったとしても,ことさら一昔前の時代との変化を取り上げるほどのものではない.
『反抗期』『思春期前期』とは言っても,中学時代はまだ半分は子どもである.『高校に入れば,青春を楽しむ』という夢がある.しかし,その高校自体が『偏差値』により輪切りにされた,つまりは自分と同程度の学力を持つとおぼしき競争相手の集団である.早い話がセックスパートナー(恋人)を獲得するにしても,中学時代に比べて条件は決して緩和されているとは見えない.自分の能力を誇示しようと思えば,もう一段上の選抜グループ(それは有名大学進学グループに入るのか,あるいは有名大学へ進学することそのもの)に入らねば『条件』を獲得したことにはならない.
競争を勝ち抜く秘訣は,競争相手(ライバル)に強い敵愾心〔てきがいしん〕を持ち続けることであり,競争をあおればあおるほど学校の中に『友情』などという牧歌的な感情は住み着くところを失っていく.おまけに過密社会のモラルとして『他人に迷惑を掛けるな』というスローガンが脅迫的に叫ばれるものだから,若者は萎縮して他人と距離を取り,表面的には争わず,冷淡な仮面をつけた紳士淑女のように孤立の中で内なる『上昇志向』だけが自分の拠りどころとなる.
ところで,そうした競争の中での自分の位置を高めることだけを当面の目標にしている若者がある時ふと立ち止まる.目指しているはずの『頂上』に黒い雲が掛かっていて,目標の山頂がまったく見えない.大学という八合目も,社会参加という頂上も嵐の中にあるようで進むに進めない.あるものは立ち止まろうとし,あるものは引き返して下山しようとする.引率の親や教師は,叱咤激励〔しったげきれい〕して,引きずりあげようとするが,こうなると恐怖感が先にたって一歩も動けない.ここまでが,引きこもりの心理状況である.比喩と現実の隙間を埋める『社会病理』説については,他にもさまざまなことを書いた.ここでは省略する.
親や教師にしてみれば,七合目まで来ているのだから後は『もう少し』だと思っている.少なくとも高校教師などは七合目を過ぎれば次の案内人に申し送りすれば,自分の役割を終わるのだから下山させることなど,最初から選択肢にない.あるとすれば,登り続けようとする他の若者を優先して,立ち止まる若者を放置するだけである.親にしても15,16まで育ててきて,もうあと数年すれば自分のパフォーマンス,自己実現は一応の完成を見る,これまでの子育てを無にする気などさらさらない.つまりは自分達がデザインして,ようやくデッサンの仕上がりかけている,わが子の人生は,自分達の作品である.わが子がそれを破り捨てて,いちからデザインをしなおすなどというのは親に対する『冒涜〔ぼうとく〕』だとしか思えない.
ある時代までは,親や社会が決めてくれたルートを歩いていけばそれで良かったのだろう.実は八号目にも山小屋は用意されており,下山路はなだらかなお花畑で,それで『聖地巡礼』は一応の達成をみることはできたのだ.しかし,若者たちはそれを信用できなくなってしまっている.『聖地巡礼』をなしとげたはずの親たちが,どうしてこんなに『みすぼらしいのだろう?』 わが親だけではない.豊かだというけれど,未来も見えなければ,現在もない.社会はまともに機能しているとは思えない.人と人には信頼もなければ,助け合いもない.人を欺〔あざむ〕く技術だけが,幸福を掴〔つか〕み取る技術であり,明らかにそのような人が成功者として振舞っている.
―この山は『聖地』なんかではない!私は別の山に登りなおすのだ!
別の山に登りなおす.このことは自分の人生を自分自身の手でデザインしなおすことを意味する.
残念ながら,引きこもりたちは七合目で立ち止まったままである.プライドが邪魔をして,降りてしまうこともできない.別の山に登りなおす勇気もない.親たち引率者もそこに立ち止まり,進むことも退くこともできない.
私は下山専門のガイドになりたい.
(10月30日)