直言曲言 第83回 「『家族論』――家族,その解体と再編に向けて①――鍋の会と開かれた家族」
ニュースタート事務局では『鍋の会』というイベントを重視している.関西では月に2回定例の『鍋の会』を開いており,毎回30~40人が参加する.その他,臨時に出張鍋の会を開くこともあり,もう少し少人数の『夕食会』も毎週開いている.
昔から『同じ釜の飯を食う』という言葉があるとおり,食事を共にする(共食共同体)というのは仲間意識を持つための出発点である.文化人類学では台所を共有するというのが『家族』の原点と捉えており,その意味では『鍋の会』は一時的な擬似家族であり,拡大家族とも言える.なぜそのような擬似家族や拡大家族が必要なのかは,『引きこもり』と呼ばれる人々が『家族』というものに『こだわりすぎている』か『絶望している』かによって理由は分かれるが,『家族』というものを考えてゆく好材料なので,素材として取り上げた.
『家族』は共食共同体のひとつであり,『家族』であるかどうかの判断のひとつは,共食共同体であるかどうかによって判断されてきた.
しかし,文化人類学が『台所の共有』と言っているのは,既に『共食』の崩壊が≪検知≫されているからである.都市と工業化の発達によって,外勤が増え,交代制勤務や夜勤などがめずらしくなくなると,家族がそろって三食,食事を共にするなど稀有〔けう〕な例となり,せめて夕食を共にするとか,同じ台所で調理した食事を(時間差でも)食べるとかに『家族』の定義は後退せざるを得なかった.職業上の理由のみならず,家族の生活時間は,お父さんの帰宅遅延,お母さんの外出,子どもの塾での深夜までの勉強などもありバラバラとなり,『個食』などという言葉も流行って,もはや『共食』など家族の絆ともいえないのかも知れない.
ある男性に『家(家庭)とは何か』と聞くと,冗談交じりだが,『食事は外食,セックスレス,子どもの教育は学校任せ….強いて言えば洋服ダンス(着替え)の置き場かな』と答えたのは,けだし名言であったかも知れない.
日本の企業では『社員食堂』などの企業家族的サービスが行われる反面,実際の家族の絆〔きずな〕には冷淡で,子育て期の壮年サラリーマンにも平気で『単身赴任』を命じる.こうなると『台所』の共有すらできず,家族の絆は『家計の共有』即ち,経済的なつながりでしかなくなる.
私は,引きこもり相談を受けるとき必ず,『毎日のお食事はどうされていますか』と聴くことにしている.お父さんの残業も少なくなったこのごろなので『夕食は毎日そろって食べている』という家庭も多いのだが,『たいていは母親と子どもで食べている』というケースが一番多い.中には,引きこもりの子どもは『家族とは時間をずらして』とか,自分の食事を『自室に運んで』とか,母親が『毎食子どもの部屋に運んで』とかと言うのも少なくない.
意識的であるかどうかは別にして,家族との『共食』を拒絶,つまり『共食共同体』としての『家族を拒絶』しているのである.この『拒絶』は家族全体に向けられることもあるが,父親にだけ選択的な拒絶が向けられることもあり,母親や兄妹との食事時に偶々〔たまたま〕父親が早めに帰宅して食卓に着くと,食事途中でも食卓を離れて自室に閉じこもってしまうという例も少なからず見受けられる.
食事を調理したのは母親かも知れないが,一家の家計を支えているのは圧倒的に父親なのであるが,ここで『共食』を拒絶された父親で,激怒して呼び止めたりする父親は稀で,母親もまた父親に加勢して食卓を離れるわが子を叱ることは稀である.
これらの出来事は,偶発的な事件ではなく,毎日の食事のことであるから,わが子の行動は既に予測されていたことであり,父親あるいはその他の家族と『共食』しないことはあらかじめ『黙認』されているのである.つまり,彼または彼女は『家族』であって『家族ではない』存在として『許容』されていて,その勝手な行動は『仕方のない現実』として受け入れられているのである.
さて,本来なら彼または彼女がなぜこのような行動に出るのかを説明しなければならないのだが,そのことは既に多く語っている.ここでは『家族』や『共食共同体』について語りたいので,話は次に進めることにする.
彼または彼女のこのような行動は,引きこもっている人にとって典型的なパターンではあるが,引きこもりのすべてがこのような行動に出るのではない.父親や母親に露骨な嫌悪感や反発を示す例があるのと同じくらい,父親や母親に異常な依存を示す人がおり,中には『共食』どころか『共床』,つまりは父親や母親との同衾〔どうきん〕をねだる成人の引きこもり例すらある.
つまり,『家族』という『特別保護』的カプセルの中で『家族』以外の人間に不信感や恐怖感を持ち,同時に家族に対する依存と反発を共存させ,人間に対する『距離感』を測れなくなった存在が『引きこもり』であると,とりあえず言っておこう.
さて,この人と人との『距離感』についての健全性を取り戻してもらおうとするのが『鍋の会』であるが,特別なことをしているわけではない.30~40人集まった会場には2つ,3つの土鍋が設〔しつら〕えてあり,肉や魚や練り物と野菜類が煮られている.つまり,鍋料理であり,当然のごとく麦酒や焼酎も用意されている.未成年や飲酒経験の少ない若者もおり3分の1くらいの人はウーロン茶などを飲んでいる.
やがて,リーダーの呼びかけで『乾杯』となり,にぎやかに始まり,その内,持ちよりの料理なども広げられて延々3時間の宴会が続く.
誰も引きこもりについて説教する人もなく,まじめな提案などもないまま会は進む.ただ会の案内には『この会は話したくない人は話さなくてもよろしい』などと,話し下手の人を安心させるようなことが書いてあるが,これはあやしい.毎回,会の途中で必ず誰かが『ジコショーカイ・ターイム』などと声を張り上げ,順番に指名されて行く.もちろん,本当に人前で話せない人もいるので,その人は名前だけ言って座っても良いことになっている.
しかし,本当の狙いは大勢の人の前で『自己紹介』できるようになることを目標にしているのだ.
さて,ここまで書けばお分かりのように,『鍋の会』とは『共食共同体』としての機能を失った『家族』に代わって,人間と人間の信頼の原点としての『共食』を通じて『擬似大家族』の場を提供しているのである.これまで80回以上続けられた『鍋の会』で延べ3千人以上の人が集ったであろうし,実数にしても数百人の若者が『鍋の会』を訪れた.そのうちの多くが『対人恐怖』を克服し,『鍋の会』で元気になれた,『鍋の会』で友達ができたと言ってくれる若者が多数いる.
半面,『鍋の会』に出てくることを目標にしながら,そして勇気を奮って『参加』の申し込みをしておきながら,当日になってにわかに『腹痛』を起こしたり,気分がすぐれなくなってドタキャンをする若者もいる.それを何回も繰り返す人もいる.参加するにはしたが,人に勧められて鍋物には少し箸をつけただけ,浮かぬ顔をしたまま3時間ずっと我慢をしている人もいる.中には,親に連れられて無理やり会場には来たが,会場の人の多さにびっりして,慌てて逃げ帰る人もいる.そうして逃げ帰った人の中には,知らぬ間に鍋の会に出てこられるようになり,今では鍋の会の世話役(調理人)を引き受けている人もいる.
父親とさえ同席して一緒に食事ができない人は,いったい何を恐れているのだろうか.他人とも打ち解けて,家族のように食事ができるのに,それを拒んでいては,人間関係は一歩も進展できない.『家族』というものの解体と再編について考えて行きたい.
(12月3日)