NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第67回 「『戒め』の効き目」

By , 2003年1月10日 2:17 PM

たいていの宗教には『戒律』というのがあって,『○○するべからず』のように,人が守るべき行動原理のようなものが定められている.仏教には『十戒』があり『殺すな,偸〔ぬす〕むな…』など十種類の戒〔いまし〕めがある.旧約聖書にも「モーゼの『十戒』」というのがあり,私は宗教研究家でないので,詳しい比較は出来ないが,概〔おおむ〕ね似たようなことが「してはいけないこと」として定められている.
およそこのような宗教的戒律というのは,その宗教が広まった当時の世相を反映していて,人々が犯しそうな過ちについてまとめた『人生マニュアル』のようなものである.仏教でも旧約聖書でも殺すな,盗むな,姦淫〔かんいん〕(邪淫)するな,嘘をつくな(妄言,偽証)など多くの共通点を持っている.さすが世界的な宗教であるから,マニュアルもまたかなり普遍的であるといえる.マイナーな宗教になると,このマニュアルもローカルなものになったり,時代限定的なものになり,とても現代人には承服できないものも出てくる.

仏典にしても聖書にしても,その宗派による解釈の違いもさまざまで面白い.また同じ戒律でも,一般人に対する戒めと僧職や聖職者に対する戒めでは違うのであろう.『姦淫するな』と言ったって,妻帯するなとかSEXそのものを禁じているのではなく,不倫とか婚姻に基づかない性交渉を禁じているらしいのだが,これも時代によって解釈を変えざるを得ない.
婚外性交渉が確かに罪悪視されたこともあるが,フリーセックスは現代だけの占有物ではない.「源氏物語」を読めばフリーセックスも不倫も,対未成年者淫行条例違反みたいなセックスも,なんでもありだ.現代に十戒を書けば『姦淫』だけでは済まず,援助交際禁止とか風俗における本番禁止とかワン切りなどの勧誘行為禁止とか,この項目だけでかなりの注釈をつけざるを得ないだろう.

『殺すな』『偸むな』などは現代にも通用する戒めだろうが,イラク攻撃のように公然と戦争を仕掛けようとする国もあれば,拉致〔らち〕のような盗みもある.もちろん,これらに対する反論も正当化する理屈もある.要するに,戒律とは権力や為政者にとって都合の悪い行為を封じ込めようとするものであり,戒律の意味や解釈を問われるときには,既にその戒律自体が相対化され意味を失っているか,副作用か悪影響がでている事態だと考えた方が良い.

私が今,疑問符をつけざるを得ないと思っている現代の『戒律』が二つある.ひとつは以前にも触れているのだが,『他人に迷惑を掛けるな』であり,もうひとつは『嘘をつくな』である.いずれもかなり普遍的な戒律のようなのだが,現代の日本,特に子育て期に未成熟な子どもに対してこの『戒律』を繰り返し吹き込むことは,人間形成上でかなり深刻な副作用が生じてしまうようである.

現代社会は過密な都市社会であり,他人に敏感な社会である.親は子が他人とトラブルを起こさないように『他人に迷惑を掛けるな』と繰り返す.そんなことにお構いなく,他人に迷惑を掛け捲〔まく〕るような子なら良いのだが,なかには親に従順な優等生もおり,親の言うことを聞いて,『他人に迷惑を掛けないように』始終〔しじゅう〕,気を遣っている子もいる.同時に,この『戒律』がトラウマになり,『迷惑を掛けられる』ことに過敏になる子もいる.残念ながら,迷惑を掛けることにも掛けられることにも過敏な子には,『ともだち』はできない.

特にうわべだけの遊び友達はできても,互いに親身になって助け合えるような親友はできるはずがない.迷惑を掛けず,掛けられず,人と付き合って生きていくことなど至難なことである.

もう一つは『嘘をつくな』である.仏教では『妄言』と書いており,おそらく迷信を広めたりすることを禁じている.キリスト教では『偽証』を禁じており,教会や王権による裁きにおける証言を想定しているのだろう.欧米の映画の裁判や宣誓式で聖書に手をおいて偽証しないことを誓うのもそのいわれである.
現代の親が子に言うのは,それ程深い意味はなく『人間同士の信頼関係を裏切ってはならない』程度の意味である.ただし言外に『(親に)嘘をついてはいけない』と強調している.他人(友達)に対してはどうかというと,もちろん『嘘をついてはいけない』のは同じなのだが,この言葉を過剰に繰り返すことによって,同じく(言外に)『世の中には嘘をつく人が多い,だからあなたは騙〔だま〕されてはいけない』と強調しているのである.これは人に騙された経験を持つ親自身の『自戒』なのである.もちろん子どもが他人に騙されないようにするための『教育』であり,愛情表現であることは間違いない.

さて,現代における『嘘』とはどんなものなのか? 釈迦やモーゼの昔から,十戒の重要部分を占めているのだから,『嘘』は人間というものに課せられた『原罪』のようなものなのかも知れない.さほど悪意のない幼児だって嘘くらいつく.しかし,親たちは幼児に『嘘をつくな』と躾〔しつけ〕する延長で,少年や大人になったわが子にまで『嘘をつくな』=『騙されるな』と強調し続ける.これは現代社会が『騙されることが多い』社会であるからに他ならない.

親自身の過剰な『自戒』は,子どもに過剰な『警戒心』や『不安』を植え付ける.

私は実は,人間はそれ程不必要な『嘘』をつく存在ではないと信じている.また,人間はそれ程簡単に『騙される』存在ではないと信じている.嘘をついたり,騙されたりする人を見ていれば分かることである.
『10万円を預けなさい.2週間後には倍になって帰ってきます』.騙される人の9割以上はこんな儲〔もう〕け話に乗ってしまう人である.苦労せずに,働かずにお金が儲かる.こんな話に乗らなければ,人は十中八九騙されたりしないものである.つまり親は『嘘をつくな(騙されるな)』と言う代わりに,『儲け話に乗るな』と言えばよいのに,自分自身が儲け話に乗って失敗した体験を話すことを省略してしまうので,子どもに対して不必要な人間不信や対人恐怖を植え付けてしまうのである.

儲け話というのはお金に対して汲々〔きゅうきゅう〕としている人をめがけて,次々に狙い撃ちのようにやってくる.マルチ商法だのを代表とする,しかし,昔から数多〔あまた〕ある,『詐欺』というれっきとした犯罪である.
しかし,つい十数年前『バブル』とその『崩壊』によって,昨日まで価値があると信じさせられてきたものが泡のように消え去った.多くの人は『誰に騙された』と訴えることも出来ない『詐欺』に引っかかったのである.市場経済という競争社会で『自由』意思による取引は『自己責任』であるという.誰を訴えることも出来ないから,親たちは『自戒』するしかない.親の過度の『自戒』は子どもたちに,見たこともない詐欺師の幻に怯え,やがては人そのものに怯え,対人恐怖や人間不信といった引きこもりにつながる.

私は『戒律』というものがおおむね『嫌い』である.特に他人に押し付けられたり,他人に押し付けたりする『戒律』は嫌いである.別に『戒律』を拒絶すること,それが立派なことだと思っているわけではない.『タバコを吸うな』『酒を飲みすぎるな』との忠告をありがたく思うこともあるが,たいていは『おせっかいなことだ.自戒だけにしておけばよいのに』と思ってしまう.

私にも『自戒』はある.せめて『自己欺瞞』だけはやめておこうと思っている.
(1月4日)

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