直言曲言 第66回 「お父さん,お母さんへ」
『引きこもりを考える会』などに何回も参加しておられても,一向〔いっこう〕に問題解決に向かって踏み出せないお父さんやお母さんがおられる.こんな方はきっと,いろんな会合に参加されても,自分たちの聞きたい肝心〔かんじん〕なことを,会の主催者たちが『答えてくれない』と<不満>をお持ちだと思う.
私自身はいつもニュースタート事務局関西の会合を司会しているが,先日(11月25日)は関東の若者たちが大阪で開いた講演会を傍聴し,第三者的に質疑応答を聞いていたので,お父さんやお母さんがせっかく会合に参加していながら,必ずしも満足してお帰りになっていない訳をある程度客観的に理解することが出来た.
若者たちが引きこもり脱出の体験談を語るこのような場で,親たちから出る質問は大別して2通りである.
① 引きこもりから脱出する上で役に立った「言葉」はどんなことばですか?逆に言ってほしくなかった言葉はどんなことばですか?
② 引きこもりから脱出させるために親がするべきことは何ですか?
この2通りの質問は,私自身,耳にたこができるくらい聞き飽きているし,お答えもしてきた.当日の会場でも何人もの親御さんが同様の質問をし,主催者もそれに答えているのだが,ある人の質問への回答が終わったとたんに,他の人が同じような質問を繰りかえす.
考えられることは,1)他の人の質問とそれへの答えを聞いていない.2)答えは聞いていたのだが,その答えが不満であり,別の回答を引きだそうとしている.このいずれかである.
例えば,②の質問に対する答えは,誤解を恐れずに省略して書くと,こうである.「親がするべきことはない」である.これも誤解を恐れずに付け加えると,「子どもが同世代の第三者と接触する機会を得るために経済的な支援をしてあげなさい」である.
①の質問に対する答えは,敢〔あ〕えて言えば,「特にない」である.体験者は人によって色んな言葉を上げるかも知れない.そんな言葉をメモして帰って,子どもに言ってみようとするのは陳腐〔ちんぷ〕である.ある程度の期間,引きこもっている子どもの親なら,脱出についての親子の対話は不可能で,特に,将来の計画などについて問い詰めるのは逆効果であることは知っているはずである.
しかも,こうした質問をして,答えに一応うなづきながら聞いておられるのだが,帰り際には納得のいかない顔をしておられるのは,決まって子どもの引きこもりが5年や10年に及ぶ人である.
私たちから見ると,『引きこもり』を親が解決しようとすること自体に無理がある.『引きこもり』の責任が親にあるとは言わない.若者に対する社会的ストレスが引きこもりを生み出すのだが,その社会的ストレスのひとつは,『親の期待に応〔こた〕えたい』というものである.本来,親と子が敵対的な存在であるはずはないのだが,期待に応えられない子どもの側では,『脱出』して『社会復帰』を願う親のプレッシャーは最大のストレスであり,親を敬遠したり,ときに反発したり,また場合によっては親を憎悪することさえある.
ところが親の方では,ある意味で,子どもの『引きこもり』に責任を感じていて,何とかして自分たち親の力で子どもを引きこもりから救い出してやりたいと考えておられる.私たちが『第三者の力を借りて』と何度も力説しているのに,都合よくその点だけは聞き逃している.若者たちの『体験談』から,都合よくなんとか『言葉』だけを聞きだして,あるいは小手先〔こてさき〕の対応を学んで,やはり『自分たち』で何とかしようと考えておられる.
引きこもりを完全解決に導くのは正直言って容易ではない.しかし,一歩を踏み出させることは今や多くの方策があり,成功例は数限りない.私たちニュースタート事務局関西の例で言えば,鍋の会や若者の会,スポーツ活動や農作業などが若者を活性化している.そこまで参加させることや,家から出させること自体が困難という方には,やはりNSP(ニュースタートパートナー=レンタルお兄さん,お姉さん)の訪問が必要だろう.第三者の支援が必要だと言っているのはこのことである.
ところが,引きこもり本人だけでなく,親が第三者を信じない.お医者さんや,心理療法士(カウンセラー)などの『資格』を持った人は信じられるのに,普通の若者であるレンタルお兄さんやお姉さんは信じられない.
これは親が近代的な社会システムに骨の髄まで毒されているのではないかと思う.私たちは医療制度や医師の国家資格を否定しているわけではない.医療の真似事〔まねごと〕や,医師の代わりのような行為をするつもりはないし,(無資格の)カウンセラーでもない.
ただ,『引きこもりは病気ではない』と主張しており,病気(精神病)でない限りにおいて,同じ人間同士として社会的に孤立(引きこもり)している人に手を差し伸べようとしている.精神科医の中でも,開明的な人や良心的な医師は『病気ではない引きこもり』に対して医療によって癒すことの限界を表明している人が少なくない.ただ,多くの医師は職業資格としての医師の,医療としての領域を拡大することに躍起〔やっき〕となっており,自分たちの『聖域』を『素人〔しろうと〕』としての普通の人間に侵〔おか〕されることから必死に防衛しようとしている.
親たちもまたそうした社会システムに生きてきた人だから,国家や社会やその制度や資格に対する幻想から抜け出すことが出来ず,人間に対する信頼よりも『資格』に対する幻想を追い求める.実は,『引きこもり』とはそうした社会システムが破綻〔はたん〕し,若者たちが社会に対する夢を持てなくなって,人間不信に陥っているのだが,とっくの昔に人間不信に慣れ親しんでいる親たちが,その人間不信を増幅させているのである.
あえて言えば,多くの医師たちも,カウンセラーのほとんども,つまりは,既存社会からの資格を得て,その教えを金科玉条〔きんかぎょくじょう〕のように守ろうとする人たちは,言うまでも無く既存社会の価値観や社会システムの守り手であって,それに疑問を持ち,それに適応できない引きこもる人たちの考え方自体を『病的』なものと見なし,それを『矯正』すべきだと考えている.
多くの親たちもこの種の人々の仲間であり,引きこもるわが子を私たちに委〔ゆだ〕ねようとはしない.ただ,『引きこもりからの解放』に『実績』があると聞き及んで,なんとかその『コツ』かあるいは,解放への『呪文』を盗み聞きして帰りたいと考えている.
私が書き連ねてきた言葉など,『呪文』といえば『呪文』のようなものでしかないかもしれない.そんなものを覚えて唱えてみても,引きこもりどころか,お鍋のふたさえ開きはしない.
私たちの元に訪れる親たちの多くは,精神科医やカウンセラーを何軒も『はしご』して問題解決の兆〔きざ〕しさえ見えずに,ついには,私たちのような実践活動に希望をつなごうとしてやってくる.それでも,先述した自分たちの領域を守ろうとする医師たちと私たちの綱引きにおろおろと立ち尽くすばかりの人たちがいる.『呪文』を期待するのではなく,自分自身が囚われている既存社会の資格幻想という『呪縛』から,自らを解き放つことが大切である.
(12月2日)