直言曲言 第68回 「社会病理と個体の病理」
『引きこもり』という,社会現象化している青少年の<症状>は,昨日・今日発現しはじめた<現象>ではないことは明らかである.2003年を迎えた今日で既に引きこもり歴25年という事例もあり,早稲田大学などで30年カウンセリングを担当してきた高塚雄介氏は「1980年代の中頃から『ひきこもり』状態にある若者たちがどの年代層にも目立ってきたと感じています」(『ひきこもる心理,とじこもる理由』学陽書房)と書いている. 実際には精神科医斉藤環氏が『社会的引きこもり』(PHP新書)を1998年12月に発表され,1998年10月頃から『大学生の不登校』に取り組んでいた私たちニュースタート事務局が,『大学生の不登校と若者の引きこもりを考える会』と名称を改めて社会的に注目を浴び始めたのではないか.もちろん,『ひきこもり』という言葉が使われる以前から『不登校』やその延長としての『閉じこもり』状態の若者,その他の社会的不適応の若者の<救済>活動を行っておられた団体は数多くあり,引きこもり問題に取り組み始めたことの<功名争い>などをする気はさらさらない.
私はたまたま数年前から『子ども未来研究会』という勉強会に参加し,座長である筑波大学の故・稲村博氏らと『今どきの子どもはこう育つ』(正・続『日本経済新聞社』)という書籍の出版に関わった.この本では青年期に限定せず,子ども達の『自己不全』が大人達の社会の反映であることを主張したつもりである.稲村氏が『引きこもり』問題に取り組んでおられ,斉藤環氏が稲村研究室のスタッフだったと知って,斉藤氏の著作によって『社会的引きこもり』の定義を知り,関心を持つようになっただけである.
引きこもりの問題に取り組むとき,この<不可思議>な状態から若者達を救い出すことが最大の課題であり,『不登校』や『いじめ』や『親の育て方』などの,『原因究明』『犯人探し』は『二の次』であると考えたのはむしろ実践者の良識であったと思う.しかし,引きこもりが社会問題視されるようになってからも5年以上の年月が経ち,それが一部の若者の特異現象ではなく,今もなお続々と生み出され続けている今日,引きこもり問題を解決し,なおかつそれを『予防』するためにはどうしても『病理』的解明が必要だと考える.
私は『引きこもりは病気ではない』と書き,かつこれは『社会病理』の反映であると早くから指摘していた.『病気ではない』と主張したのは,多くの引きこもりの子を持つ親達が,自身の理解できないわが子の様子を『精神病』と勘違いし,現実に精神科医の門を叩き,投薬治療などの結果却って引きこもりを<こじらせる>事例が余りにも多すぎたからである.『社会病理』と断じたのは,引きこもり当人や親との面談がおよそ100例を超えたとき,そこに共通する要因や状況(敢て『症状』という言葉は避けたい)が余りにも多く,むしろその面談記録が『判で捺した』ように類似していたからである. これらは,個別に発生した,個人の病気であるはずがない.共通するのは現代の社会システムに起因する『人間不信』『対人恐怖』であり,少なくとも『親の育て方』など個別の家庭問題に責任を帰することは出来ないと考えたからである.
『社会病理』『社会システムの破綻』に原因を求めたからと言って,具体的に引きこもりに陥っている若者を放置して『社会改良』が『治療法』だなどと主張するのではない.しかし,引きこもりが主として『社会病理』を反映した『社会病』である限り,少なくとも本人の周囲にマイクロモデルとしての人間関係を復元し,成育史をトレースしなおすという『対処法』は考えつく訳であり,薬理的な治療法や迂遠〔うえん〕な臨床心理的な方法がなじまないことは明白である. もちろん,今日では多くの精神科医も引きこもり精神病と混同している訳ではなく,薬物治療は単に『対症療法』でしかないのはご存知のはずである.ただ,彼らが受けた医学教育には『社会病理』という概念はなく,社会システムの破綻としてではなく,神経システムの破綻という捉え方しかないから,それを『モノとして治療する』方法しか思いつかないだけである.
カウンセラーや臨床心理士はもっと素朴に考える.こちらは引きこもりを器質的な精神障害とは考えないと言う点では正しいのだが,社会的な病理の反映とは考えず,個人的な<心の傷>と考えるのが主流である.すなわち学校や職場での『いじめ』,親の『虐待』などによる「PTSD」(=Post Trauma Stress Disorder)=心的外傷後ストレス障害だと捉える.これはベトナム戦争帰還兵の中に発見された症状で,最近の日本では阪神淡路大震災で親を亡くした子や小学生大量殺人事件で級友を殺された子ども達の治療に用いられる概念である. 英語である点,何となく近代的な匂いのする概念,『優しさ』の必要性が強調される今日の世相を反映して『心理学』ブームであることから,これで治療できると錯覚する人が多い.あくまでもカウンセラーとクライアントの個人的な関係で治療できると考えている.治療できないと断言は出来ないが,現実には治療例はほとんどなく,10年あるいはさらに長く解決を遅らせる結果となっている.仮にいじめや親の育て方に起因するPTSDが認められるとしても,その他の要因が全く看過されているからである.
それでは『社会病理』と言い,『社会システムの破綻』が原因だと言って,何が解明されるのか?ことはそれほど単純明快ではなく『解決』法に直結するわけではない.もともと『社会病理』というのは社会学的概念であり,治療法がそれに対置されているものではない.『群集心理』などもその亜流の概念であり.石油ショックのときにトイレットペーパーの販売に行列が出来,パニックが発生した.治療法はトイレットペーパーの大量供給か情報提供であろう.拝金主義の風潮なども『社会病理』といえるが,残念ながら思いつく治療法がない.経済システムの混乱による失業者の増大は経済再建や雇用拡大で防げると言えるが,失業による中高年の自殺者増加との因果関係は証明できても直接それを予防する策はない.
つまり『社会病理』それ自体は為政者による失政や,社会システムの陳腐化や破綻を社会的に放置してきた結果生まれた<不健全>な社会の状態であるが,それが自殺や引きこもりに結びつくのは個人の資質やミクロな環境の特性抜きでは考えられないからである.
つまり自殺者が全て『統合失調症(分裂病)』などの精神病ではないが,健康な精神状態を維持しているとは言えず,何らかの形で健全性を失調しているのは明らかである.その意味では私の『引きこもりは病気ではない』の主張も,ある意味で一貫性を欠いており,『(精神病)ではない』と限定されるべきである. 自殺者と引きこもりを同列に論じることは出来ず,片や厭世観に取り込まれているが,引きこもりの方は強い『上昇志向』に囚われており,リストカットなどの自傷行為はあっても,むしろ苦しみを周囲の人に伝えるための『演技性』のものが多く,強い錯乱や絶望に至らない限り『生』への執着は捨てないものである.
しかし,『引きこもり』もまた健康な精神状態でないのは明らかであり,精神病とは区別しつつも,ある種の『病的』な状態であることは確かである.それでは『引きこもり』が『社会病理』により引き起こされる,全ての若者にとっての必然的な結果であるかというと,これも『否』である. 今日『引きこもりは』非公式な推計で160万人と言われ,『成人病』と同じような概念を借りれば『青年病』と言っても良いような,青年期にありがちな症状になっている.仮に青年というのを15歳から30歳程度までの年齢層とすると,該当年齢の人口はおよそ2,500万人程度であろうから6%程度の罹病率〔りびょうりつ〕ということになる.大変な数ではあるが全ての人が引きこもりになるわけではない.つまり『社会病理』という明確な背景があるにしても,個人が引きこもりになるには,その『個体としての病理』との複合作用であり,このことも私たちの『面談記録』の中に明らかに見て取れる.
引きこもりは『社会病理』と『個体の病理』の二重螺旋〔らせん〕構造の中で成立している.『個体の病理』を個人の器質的欠陥のように誤解されてはいけないので,『気象』に対して『微気象』(衣服に包まれた空気層の状態などを指し,風邪引きなどの原因となる)という言葉があるように,『個体を包む微小社会の病理』と言っておく.こう言うと少し賢明な方ならすぐに『家庭』の問題だなと見当をつけるだろう.確かに『家庭』もその一つであり,重要なファクターであることは否定しない.しかし,それを『親の育て方』に限定するのは早計である.
もったいぶらずに『個体を包む微小社会』を種明かしすれば,家庭・学校・近隣社会など,個人の日常生活を包囲する環境総体のことである.特に重要なファクターを挙げるなら,そこにおける人間関係,友人関係である.社会学的には言い古されたことだが,近隣社会の崩壊によって,子ども達は友人関係を絶たれ,大人との接点も絶たれて,親と学校の先生以外の大人を知らずに育てられる.遊戯はほとんどゲームなどのヴァーチャル世界に限定され,人間としてのぬくもりを感じるような『遊び相手』や友人を作れない.親たちもまた,近隣と支えあって生きているのではなく『お金』というヴァーチャルな価値にしがみついて『自閉』している.学校世界は地域や同世代のゲマインシャフト(共同社会)ではなく,上級学校をめざすためのゲゼルシャフト(利益社会)に化し,友情の代わりに競争意識を植え付けられる.
子ども達は『他人に迷惑を掛けない』ことだけを社会的美徳として教え込まれ,代わりに『他人に騙〔だま〕されない』ことや『出し抜かれない』ことを処世術として身に着けさせられる.かくして,友人と必要以上の距離に近づかない『人間不信』や『対人恐怖』を持った青年が誕生する.ここまではほとんどの若者に共通する特性である.あとは,ほんの少し真面目であることや,孤立傾向,プライドが高いこと,上昇志向に囚われていることなどが『引きこもり』と,そうならない子の分かれ目である.敢て言えば,鈍感なほどにたくましく,利己的な若者も『引きこもり』にならないことを付け加えておく.
こうして見てくれば『個体を包む微小社会』という『個体の病理』を生み出す環境要因は100%と言ってよいほど『社会病理』を反映しているのであり,ほとんど完璧な二重螺旋構造を描いていることは疑いがない. それではなぜ,2,500万人のうちの「たった!160万人しか」引きこもりにならないのだろうか?『個体を包む微小社会』のなかの『家庭』の要因がそれを左右していると言える.これも早合点して欲しくないのだが,いわゆる『育て方』の問題では決してない.『過保護・過干渉が引きこもりを生み出す』というのは,一部は真実であるが,決定的な要因ではない.放任主義の家庭からも『引きこもり』は発生する.問題は『引きこもり』かけたときに『家庭』がどう対応するかである.
『引きこもり』は対人恐怖や人間不信をともない,学校生活を含む『社会参加』を恐れ,『家庭』に引きこもるのである.要は『家族依存』であり,時には家族への強烈な反発を含む『依存』なのである.この依存を許すか,許さないのかが引きこもりの長期化の分岐点である.短期的な引きこもりはむしろ社会的な反抗期か,多少『遅れてきた反抗期』『遅れてきた思春期』であり,慌てる必要もない. 不謹慎であるが,経済的に逼迫〔ひっぱく〕している家庭では引きこもり事例はむしろ少ない.家庭に引きこもったり,家族に依存することさえ出来ないからである.失礼な言い方をしたが『鈍感なほどにたくましい』子も引きこもりにならない.これも『家庭』のありようの一種かも知れない.
『引きこもり問題』における家庭の対応の仕方の重要性を指摘すると,一番厄介な誤解が生じる.それは母親が自分の子育てを自省したり,『家庭』を放置してきた父親の役割を責めることである.父親の『家庭回帰』や母親が必要以上に引きこもりのわが子に愛情を注ごうとするのは,却って有害である.近隣社会とのネットワークも持たず,拝金主義的でヴァーチャルな価値観と,閉ざされた核家族を,これまで以上に守ろうとする方向に傾くからである.『家族を守ろう』とすると一層,外部社会との垣根を高くし『家庭内』だけの平和を目指すことになりやすい. むしろ『家族を開く』ことこそ重要であり,その家族の周囲にある『社会』にどう働きかけていくかが問われるのである.
(2月18日)