NPO法人 ニュースタート事務局関西

直言曲言 第7回 「引篭今昔物語」

By , 2001年3月27日 2:37 PM

 引篭もりというのは実は昔からある自己防衛のスタイルで,それほど珍しいものではありません.もちろん,何もかもが自分の思いのままに実現してしまうような幸せ者が引きこもりなどするわけがなく,受験勉強に行き詰まったりするのと同様に,権力闘争に敗れたり,芸術表現に行き詰まったり,宗教的な解脱に失敗したり,引篭もりへのきっかけは人さまざまのようです.

 昔からある<隠棲>などというのも引きこもりの亜種で,源氏に敗れた平氏一族が西日本の山深い隠れ里に隠棲するのも,社会的引きこもりです.それ以前に栄華の極みにあったやんごとなき人々が,都を捨てて京の北山の外れや宇治などに引きこもった例も多かったようです.
  こういう引きこもりに共通しているのは,朝廷権力に近い人や,あるいはその寵愛を受けていて,ときめいた人たちが,やがてその権力や寵愛から見離され,世をはかなんで,あるいは<諸行無常>などと悟りを得て引き篭ったようです.最初から権力争いに無縁な衆生や,水のみ百姓の小倅などが引きこもったという話はあまり聞きません.どうやら,引きこもりというもの,昔から権力欲や競争における勝ち負けというものと無縁ではなかったようです.
  中国にも昔から,山奥に棲む仙人の話やら,隠棲していた賢人が武将に見出され世に出る話などがあります.あれとても,科挙の試験に敗れた自信過剰の英才が世を拗ねて引きこもっていたようで,最初から科挙も目指さず,受験勉強もしないような天然の賢人がいたのではなさそうです.科挙の試験でよいところまで行っていたのに,運悪く試験当日にお腹をこわしたりして落第した,というような例ではないでしょうか?受験競争とは罪深く恐ろしいものです.

 少し話が脱線したようなので元に戻しますと,この隠棲というやつにも二種類あったたようで,ひとつは金銀財宝を山ほど抱え込んで女官や侍従などにかしずかれながら山里暮らしをする人で,これなどは宮中の堅苦しい勤めと,官位争いに疲れた人です.いまどきで言えば,リストラに嫌気しながらも,しかし,十分な退職金も得て脱サラし,田舎に別荘を買って引きこもるようなもので,若い人の引きこもりの中にもこれに似て,親の財産をあてこんで一生働かずに過ごそうなんて<贅沢病>も,ないではありません.もうひとつは,昔から『離人症』,『対人恐怖』に近い引きこもりも少なくなかったらしく,都から人が訪なってきても,むげに断って会おうともせず,世捨て人と言われた類です.

 ところでこうした昔話をしていると,誤解を招きやすいのは,平安時代などはいまどきの東京や大阪のように千万人単位の人が棲んでいたわけではなく,人と人の距離と言うか,人が棲息していた密度というものが恐ろしく低かったはずです.ですから,基本的に彼らの人恋しさの気持ちが現代と比べ物にならないはずです.
  北面の武士であった佐藤某は出家して西行法師と名乗りますが,彼なども女々しい歌を数多く残していますが,その中のひとつ,『願わくは花の下にて春死なむ,その如月の望月の頃』などと言っており,寂しがり屋の真骨頂を表現しています.喜撰法師も,『わが庵は都の巽しかぞ棲む世を憂し(宇治)山と人のいふなり』などと,世捨て人を気取っていますが,「おひまならどうぞ遊びに来てちょうだい」という気持ちが見え見えではありませんか.
  現代の過密都市で『方丈』ならぬ兎小屋に住み,満員電車に揺られて通勤するわれわれとこの時代の人と人の距離感とは大分違うようです.離人症でも引きこもりでも,こうした人恋しさの逆説的な文学的表現ではなかったかと思えるのです.

 さて,書いている本人にも何を言いたいのか分からなくなってきましたが,ともかく平安時代や鎌倉初期に比べて,現代人の不幸は人と人の距離があまりにも狭くなっていることです.それだけ人と人との軋轢も激しく,ときには通りすがりに肩をぶつけられたり,電車の中で足を踏まれたりするだけで,赤の他人に殺意に近い憎悪さえ感じる人がいるようです.
  おそらく交通手段が発達していず,マスコミなどというものもない,おまけに人間の数も少なく,まばらにしか暮していなかった頃には,アイデンティティ(自己同一性)や自我の混乱などというものもなかったのではないでしょうか?交通の発達や都市への集住によって,人は無理矢理他人との集団としての同一性を求められたり,差異の認識をせざるを得なくなり,時には類への帰属を暴力的に強制するような社会的権力(親もその代表の一つだよなあ)に生理的な嫌悪感を持って,引きこもってしまうのではないでしょうか?今はむしろ過剰なコミュニケーションによって人間嫌いになったり,自我を見失ってしまうような時代です.
  でもある意味で,平安帰属の権力争いに敗れた人の孤独感は,その物理的尺度は別として,現代の過密・競争の中の人間不信や孤独感に合い通じるものがあるのかも知れません.だけど昔の人の<隠棲>というのを見ていると,やっぱり権力に接近して,散々甘い汁を吸った人がその果てに世間から逃亡するのが多いようです.受験勉強につまずいたくらいか,就職するのに気が向かないからと言って<引きこもる>というのは,やっぱり30年くらい早すぎるのではないでしょうか?
(3月27日)

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