NPO法人 ニュースタート事務局関西

「やめることができない」髙橋淳敏

By , 2025年3月15日 5:00 PM

やめることができない

 近年は、年度末になると携帯電話(スマートフォン、以下スマホ)の代金や家の通信費用、電気料金やガス料金など毎月払っている支出の見直しが恒例行事となっている。親や子たちのスマホや、各携帯会社に紐づいているプロバイダー、電気会社など、それぞれの料金プランやそこに付与される特典を把握して、どこの会社のどのプランと契約するかを決定していくのは至難の業である。最近ではスマホを2年借りて返すなどのレンタルもあり、携帯キャリアを変更するのは複雑怪奇で不可解である。一つのスマホを変えるだけでも、開発や製造や流通や販売などたくさんの労力と時間が動員されているはずだが、なぜかその変更をしないと利用者の方が損をする事態になっている。もっとおかしいのが、家族の中の誰かが使えなくなるなどして、スマホ本体を変えなければならないとすると、ただ一つのスマホを買えば済むような話しが、他の家族と家の通信費用や電気料金なども一緒に変更すると、スマホが無料で手に入るだけでなく、そうしてキャリアを移動して他の家族分の必要もない機種も同じように買い換えることもできれば、変更するだけでどっかから生み出される高額の特典が付与されたりもする。携帯キャリアやスマホを変え続けていると現金でのキャッシュバックがあったり、ポイントで付与されたりで実質無料というか、利用者の「儲け」がでるようなことがある。どこに移動しようが利用者が月々に支払う金額や仕様は、ほとんど変わらない。キャリアやそこに紐づいている会社を行き来するだけで、今後支払う金額以上の特典がついたりする。利用者や家電量販店の店員が一緒になって、皿に乗った豆を、隣の皿に移し、それをまた元の皿に移すだけで、何かが生み出されるようなことが起きる。
 要するにこのスマホの変更は商品を売買しているのではない。株主優待みたいな特典が、キャリアを変えるだけで、何度でも付いてくると云えばいいだろうか。それでも携帯電話会社は、利用者による月々の支払いで、濡れ手に粟のように儲けているのだろうし、そこで実質得をしているような人があれば、どこかで誰かが馬鹿みたいな金を支払わされているのに違いはない。それを詐欺とも云わないし、金を持て余し訳の分からない仕事を作って、利用者も共犯関係にあり付き合わされている。付き合わない利用者は、金をふんだくられる。日本は特にこのデータ通信費が高いと言われているし、日本に住む人以外はこの複雑怪奇で不可解な料金システムを理解するのは困難であろう。毎年のように更新する取扱説明書を読まされるようにして、私はこの時期を過ごすことになる。10年以上も昔はネットで調べて、ネット上で契約を変更することが多かったし、頻度も2年や3年に一度とかで良かった。でも最近は、紐づいた10弱の契約が関連づいたりしているので、その全てを管理して組み立てることはやらなくなった。なので少なくとも一年に一回は近所の家電量販店などへ行って、店員に捕まって2日くらいかけて議論し、契約変更するなんてことになっている。家電量販店のスタッフは当然、訳の分からない料金プランに詳しいのだが、結果としては客はただキャリアを行ったり来たりしているだけで、この仕事は何も生産していないどころかむしろ全体として利益すら下げている。キャリア同士の偽競争をなくして、ただ通信費を安くした方が、誰にとっても得だろうと思いながら、私も毎度こういった行為をやめられないでいる。ただ続けていれば、この仕組みに吸い上げられる一方といって、くだらない仕組みに関与し続けるしかなくなっている。果たしてそうなのだろうか?今回もこの儀式に関わる中で、一つ前向きに、これはスマホの契約を毎回破棄して止める行為なのだと自分を納得させることにした。続けるためにではなく、止めるために毎回時間をかけていると考える。いつか止めてやると、でもまだ続けてしまっている。
 問題などが生じている時、何かをし始めることよりも、今やってしまっていることを止めた方が良い場合は多い。先に挙げたスマホなんかもそうで、この話しは前にもどこかで書いたが、例えば依存症については分かりやすい。酒やたばこ、薬やギャンブル、ゲームなどが日常生活を続ける上で問題となるのならば、それらを止めるにはどうすればいいかを考える。これが同じ依存症でも、食事や性愛、人間関係のような事であれば、それらを全て止めてしまうことはできないので、多少は新たな依存先というか、新たに何かをし始めることも大事だろうが、やり続けている行為にどういった意味があって、依存し続けていることを止められないかを考えることだろう。再三書いてはいるが、「ひきこもり」と名指されている名は、元々は引きこもるという動詞、行為から派生した名詞である。引きこもるのは行為である。それなのに「ひきこもり」は、学校へ行かないとか働かないとか外へ行かないとか「~をしない」状態ばかりが問題にされる。引きこもる個人を問題とする話しと同じである。引きこもり続けていることは行為として理解はされず、新たにでもなく、場合によっては過去にやっていたことを再びやらせること(社会に同化させること)で、「ひきこもり」を社会復帰させることで問題を解決しようとする。引きこもっている原因が、かつてやったこと(学校へ行くなど)であったとしてもお構いなしに、学校に行かなくなった子が、どのようにすればまた学校などに行けるようになるかを、本人や周りが考え続けることもある。それこそが引きこもる行為を続ける直接的な外因でもあり、周囲も巻き込んだ堂々巡りだと云うのに。引きこもり問題の核心は、学校に行かないとか働かないとか気力がないとかではなく、当然引きこもり続けていることにある。もっと言えば引きこもり続けているのでもなく、引きこもるという行為を止めることができないでいる。そこで引きこもる行為を、ないことにしてはいけない。なぜ引きこもる行為を止められないのか、多くの人が引きこもる行為を止められない「引きこもり問題」は、この社会に何を問うているのか。「ひきこもり」は、社会問題であると言っている理由はここにもある。

2025年3月15日 髙橋淳敏

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