NPO法人 ニュースタート事務局関西

10月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

By , 2024年9月22日 10:00 AM

10月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

10月19日(土)14時から (307回定例会)
場所:クロスパル高槻 5階 視聴覚室※いつもと場所が違います。ご注意ください。
○この日は、高校教員をされている末岡さんが話題提供者です。学校化する社会から皆さんと共に引きこもりと不登校について考えていきたいです。
 
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。

「傷の中に入っていく」髙橋淳敏

By , 2024年9月21日 5:00 PM

傷の中に入っていく

 もう9月も終わりに近づいているが、大阪は連日35度を超えている。夜も暑い。異常気象と言われるのは、日本だけでもないらしい。東欧や東アジアの水害も報道されていた。毎年のように異常気象なのだから、何が正常なのかもわからないが、地球全体が異常な状態なのだろう。私たち人間が気候の変化に神経質になっているのかもしれないが、神経質にさせられるほどには、この変化に警戒すべき根拠はあるようだ。気候は毎年のように少しずつ変わってきている。ここ50年100年のスパンで地球上を見ると、昔と同じ場所を探すことの方が困難であろう。でもまあ地球規模では何億年かければ変化はするものだ。ただ、どうも人間が住み始めてから、特に近代と呼ばれるようになってからの100年200年ほどの変化の加速度的なものは、異常と考えるのが良さそうだ。私たちが毎年のように異常だと感じているのは、去年からの変化の加減(+-)を言っているのではなく、ここ最近の変化の加速(×÷)について感じているのだろう。もしかしたら温暖化などの変化は、長いスパンで地球からすれば正常なのかもしれない。何億年単位で見ると人類はいずれ滅亡する運命にあるのかもしれない。だが、今の気候の変化の加速度的な具合は、人間にとっても地球にとっても異常なのだと思う。近代になって人類は地球の癌のようになったのかもしれない。まだ世界の人口は増えてはいるようだが、地球は年々人類が住みにくい方向へと変化しているみたいだ。そして、住みにくくなる変化へと加速させているのは、皮肉にも近代的な人間の暮らしや経済といっていいだろう。自らで自らの首を絞めている。とはいえ、人間が地球を滅ぼすことはないだろ。未だ地球にとって人類は微々たる存在である。地球が人間にとって住めない場所になっていくことで、ノアの箱舟を作ろうとしたり、火星に脱出するなど考えている輩もいるが、果たしてそんなことでいいのだろうか?
 今年に入って、珠洲市などの奥能登に何度か行く機会があった。元旦の能登半島地震がきっかけだ。外浦を見ると分かりやすいが、地表が全体的に隆起し、いたるところで海岸線が大きく後退している。大部分の海底がせりあがって陸というか岩場になっている。地球から見れば大したことではないが、人間にとっては住めなくなるほどの大きな変化である。金沢から車で三時間ほどかかる奥能登は、昔から北前船などの海路で発展した経緯がある。半島とはよく言ったもので、半分は島みたいなものだ。船や漁港が使えなくなるだけでなく、漁場が変わり、能登の生業の一つの漁業にも大きな打撃を与えた。そんな場所にピンポイントで原発を建てる計画があったのだから、改めて国家政府の政策の浅はかさに呆れるしかない。大きく黒い能登瓦でつぶされている家が、車道沿いに延々と続く、輪島の朝市周辺は焼け野原になっている。隆起した地表や津波や家の倒壊は、今回の能登の地震の被害の中でも深刻なものだが、もっと深刻なのは人災ともいえる被害だ。様子が違うのは被害の風景に時間の感覚が紛れ込んでいることだ。つぶれた家は時間をかけて朽ちていて、何度もひっくり返された家は跡形もなく、無残な瓦礫は行き場を失い、そこかしこに山積みになっている。焼け跡からは草が生え、露わになった鉄筋は錆びて赤くなり、炭は色を失っていた。復旧や復興にあるはずの音がなく、とてもしずかで見ている景色とのコントラストが異様だった。この被災地はすでに半年以上が経過し、被害は人の手が入らないことによって風化している。

 珠洲市の仮設住宅に住み、私たちがボランティアの拠点にしている公民館に来てくれた子育てをしているお母さんたちに興味深い話しを聞いた。「知人や親戚には金沢などに避難している人が多くいるが、彼らは変化のない状況に絶望しているしとても疲れていて暗いと、能登に残った私たちの方が日々のちょっとした変化を見れるので元気そうだ」と。私も外から来ているので、何度来ても変わらない町の光景に暗い気分になっていたが、その話を聞いて少し安心した。それ以上に、避難に留まることの意義を教えてもらった気がする。もちろん、外部の人間が、中の人に避難に留まれと言うのは暴力にも近いことなのだが、避難に留まることによって、日々の変化や関係作りに向き合い、外から見られるような復興や復旧ではなく、新たな生活や身体が回復していくことはあると思う。必ずしも悪いとは言えないが、金沢で新しい生活を始めたことによって、今回の地震で向き合わざるを得ないことを後回しにしてしまうことは仕方がないが、その生活にはあまり希望がないのかもしれない。新天地で生きがいのようなものが見つかればいいが、ただ遠くの故郷を心配し、とってつけたような新しい生活をしなければならないのであったら、回復とは程遠いことなのかもしれない。
 神経症と言われたり、神経質な気質が日常生活の障害になっていて、それを克服するやり方として、薬などでこだわりを解くのは一般的な治療法ではあるようだが、神経症の中に入っていく方法もあるらしい。地震などの被害でえた心的外傷を、遠く離れた地で癒すのではなく、新たな被害が及ばないくらいは避難はしても、被災した近くでこそ癒えていくことはある。私は常々、引きこもるという行為はそれに近いものであるように思っていた。学校や職場などで得た心的外傷(いじめなど直接的な被害だけに及ばない、傍観者であったという間接的被害加害にも及ぶ)を、その経験と共にあった家や部屋にとどまって癒そうとする。家族など周りの人は、家でなくてどこか遠くへ行った方が、その傷は癒えるのではないかと家から出ることを勧めるが、特に本人はそのような気にはなれない。被災したお母さん方が教えてくれたのは、その時に傷が癒えるのに大事なのは、日々同じ日が繰り返されるのではなく、外からは見えないくらいの日々の変化である。公費解体が5%から10%になったというのではなく、昨日あった瓦礫が少しなくなっているとか、昨日までは食べることができなかったものが食べれたとか、あるいは少し後退したとか。そういった小さな変化は、神経症の中に入ったり、避難生活の中に留まることでしか実感がしにくい。冒頭、私たち人間が気候の変化に神経質になりすぎているのかもしれないと言ったが、火星などに移住することを考えたり、ノアの箱舟で未来に何かを残そうと考えたりするのではなく、私たちはこの気候の変化の中にとどまることにこそ、希望を見ることができると考えている。引きこもる状況にあることは、そこに留まることではあるが、大事なのは小さくとも変わっている日々であって、その変化は自分の内側から起こせるものではなく、危機の時に外からもたらされることがきっかけになる。

2024年9月21日 髙橋淳敏

10月の鍋の会

By , 2024年9月21日 5:00 PM

日時:10月13日(日)12時~16時 第497回

みんなで集まってから何鍋にするか考えて買い物に行って鍋を作ります。初めての方も久しぶりの方も大歓迎です。参加される方は必ず申し込み下さい。

場所:「へそでちゃ」(JR摂津富田駅から徒歩15分弱)

待ち合わせ:11時45分JR摂津富田駅改札口

現地に来られる方は12時までに来てください。

参加費:カンパ制 

参加資格:鍋会前か後に引きこもりを共に考える交流学習会に参加

9月の鍋会報告

By , 2024年9月14日 10:34 AM

 9月8日(日)鍋の会開催しました。7人参加でした。8月は祭りのため鍋会はなかったので久しぶりです。もう9月の鍋会頃には少しは涼しくなっていて鍋も美味しいだろうと思っていましたが連日続く35度超え暑さの中のお鍋になりました。この日は牛肉が半額になってた時に買っておいたと言って牛肉を持って来てくれた方がいて、すき焼きに決まりました。暑いからどうかなと思いましたが、こってり甘醤油味のすき焼きは暑さに負けないうまさでした!大きなテーブルを囲んでみんなの顔が見え、話したり食べたりのんびり過ごしました。夏の暑さの疲れが身体にも心にも出てくる時期かもしれません。良かったら鍋の会に来て一緒に時間を過ごしませんか。美味しいという気持ちと笑いは元気になるためには必要です。ぜひご参加ください。(くみこ)

8月例会報告

By , 2024年8月29日 9:34 AM

8月17日(土)11名参加(内家族の方は2名)でした。フランスからアーティストの二人が参加していました。彼らとは5年くらい前からの関わりで、引きこもりの人と表現活動をすることで彼らが動き出せるのではないかと何度も日本に来てニュースタート関西の活動に参加し私たちと長い時間を一緒に過ごしました。その中でニュースタート関西の活動の映像と、そこで出会ってつながりができた3人との遠隔での出演による演劇をつくり、2年前くらいからフランスで公演を重ねています。「HIKU」というその演劇はフランスで1年間に25公演ほどあり、評判も良くこれからは他の国や来年の春には東京での公演も予定されているそう。日本において「引きこもり」とは個人の問題であり深刻で、外に向けて表現することはほぼないが、彼らはそれを社会問題として表現活動をするところが面白いし学ぶところが多いです。
 8月の中頃に千葉のニュースタートを訪問して、代表の二神さん、スタッフの方々とも話をしてきました。ニュースタートは「ニュースタートプロジェクト」から始まっている。引きこもりという言葉もまだなかった頃にそんな状態の若者10人ぐらいをイタリアの農家に連れて行き2,3か月過ごすというもので、そこでは地域の人たちが何の偏見もなく関わって彼らも役に立てたりしただろうことは想像できる。その間元気に過ごした彼らは日本に戻ってきてまた同じように引きこもってしまった。その時、出てこれないなら迎えに行こうと事務局のスタッフが訪問したところから訪問活動が始まり今のニュースタートの活動が始まった。この「迎えに行く」ということの重要さ。誰も迎えになんて行かない。医者も相談窓口も困っている人が来るのを待っている。迎えに行くということは、自分たちの側(社会の方)が変わっていきますと言っていることになる。「待っている」ということは、そっちが変わってから来いとうこと。力の強い方が待つことになるのなら、訪問活動というのは引きこもっている人のホームにアウェイの他人が入っていく。そのことに意味がある。
 学校に行けなくなった人には学校に行こうより、行くな(個人が傷つけられるような差別されるような状況の場所なら行かない方が良いと親が本心で思えるなら)と言った方が本人はじゃあ自分はどうするかと考えなくてはならなくなる。自分で選ぶこと。本人に勇気もいるし、親もその子の選択を応援できるか試される。緊張のやりとりだ。
 就職氷河期には社会から「いらん」と言われた多くの若者がいた。そのことから引きこもりになった人も多かっただろう。しかし今は逆に若者が少なく「必要だ」と言われているのに若者が拒否している。そのことで少しずつでも社会は変容してきてはいる。若い人に寄り添って会社の方が変わってきているところもある。それなのに働きたいと思えないのはなぜか。働くことのその先に幸せがあるのか見えづらい。昔は一生懸命働けば幸せになれる、というような社会全体からあふれる雰囲気があったのかもしれない。
 親と一緒に暮らすことについて。親と子は違う人間で全く別の価値観をもつ。だからずっと一緒に居続けることは困難で、離れたいと思うことは自然。親は子にやりたいことを好きなようにやって欲しいと願うが、その子のやりたいことは親にとっては全く価値のないようなものに見えることもあるかもしれない。そうなると親の気持ちを考えるような優しい子であればあるほど、親が好まないことはわかるからやりたいことがあっても言えないし動けなくなる。子が家から出ていく一番大きな原動力は「家にいたくない」だろう。「家は居心地よいけれどやりたいことがあるか出よう」というのはよほど具体的にやりたいことがあり目指していることがなければ難しい。しかも引きこもっている状況では誰からも大人として扱われることはなく、家から出られる自信などできない。もし子が家を出る話をする時は、どうやって出てどう暮らしていくか話し合い背中を押せるかは、一人でも生きていけると信じていないとできない。子を信頼するということ。
 他に話の中で、大変になっていくこれからの時代に「引きこもっている場合じゃない」という言葉がありました。社会の生きにくさに気づいた私たちこそ社会を変える力がある。1人でやるのではなくてみんなで話そう。考えて自分たちでやっていこう。(くみこ)

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