12月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
12月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
場所:クロスパル高槻 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】
12月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
今際の際
今際の際で、かつて高校時代に引きこもっていたことを思い返す。自分の部屋を出て、物置だった部屋に私はずっと一人でいた。私は過去だった。その後、私が生きることになった未来はともかく、今ここは「われ思うゆえのわれ」でしかない。何もない現在は、地縛霊のごとく成仏せず、この部屋を過去の私とともに浮遊している。あらゆる幸せはここに現れることができない。そこが気に入ったところでもあった。安全ではないが、不幸にもここに落ち着いた。親や兄弟は心配はしているのだろうが、表向きはかまってこない。私は腫物のようなのだろう。妹がご飯を運んでくる。それを食べてはまた廊下に出す、味は濃いか薄いかくらいで、おいしいとかまずいとかがない。出されたものを、ただ食べるだけ、残しもしないが満足もない。今の時代と違って、スマホもなければパソコンもない、テレビすらない。音楽も聞けない。ラジオくらい持ち込んでもよかったが、ラジオとか何かに夢中になっているのだと周りを安心させたくはなかった。そもそも夢中になったラジオ番組もなかった。そういう私という存在を不安に思ってもらいたかった。かまってはほしくないが、存在したかった。穴のような、この存在を畏怖してほしかったのかもしれない。
両親はともに教師であった。特に大正元年生まれの母は当時では珍しく女学校に通ったのだった。女性として、教師としての気概があった。結婚するときの条件は教師を辞めないこと、結婚式でその条件をのんだ父と初めて会った。お互い晩婚だったが、そこから4人の子どもを産んだ。その中で、私が母に一番可愛がられた。家事の多くは女中が担っていた。この食事も女中さんが作ったものだ。私は高校生になり、学校の教師と上手くいかなかった。母なら慰めてくれただろうが、それではだめだし、ここは親に頼りたくはなかったし、頼れなかった。いずれにしても、穴のような私の存在は、肯定されはしないだろう。誰にでも我を通してしまう兄には理解できないし、妹は母の遣いでしかなかった。姉は奔放で家にはいつかなかった。それにしても、友人たちはなぜあのような間違った教師を許せるのか。私は許せずにいるし、その教師を正さずにしれっと教室に戻るなんてことはできなかった。全く、恥をかかされた。あんなひどい教師、いや人間として間違っている。友人たちに合わせる顔もなければ、クラスメートは私のことは心配していないのだろうか、それともこんなことを気にしている自分がおかしいのか。言葉にしなくてはならなかったが、当時は「引きこもり」なんて言葉もなかった。結局幸せになること、豊かになることは、親の家から都会へと出て、会社に勤め小さな家族とちょっとした持ち家と人より少し見栄えのする自動車に乗ることでしかなかった。次男であったし、この家を出ること以外、他に選択の余地はなかった。私は引きこもることを否定して、穴のようだった自分の存在を家だの車だの見栄だのとくだらないもので埋めて、自分に嘘までついてこの部屋から出た。それは当時の時代としては自明のことだった。随分と時間はかかったが、そうするしかなかった。いわゆる、現世は仮初だった。
私が結婚して、息子が私の引きこもった年頃になると、息子も同じように穴となった。私は息子には、自分にもそのような時期があったことを伝えなかった。私は引きこもることを否定し、部屋を出たので、語る言葉は持ち合わせてはいなかった。自分が未解決なままにしたので、息子に遺伝してしまったようで気の毒に思ったが、たぶん自分と同じようにしていつか引きこもることを否定して、自分とは違ってもう少し現代的な価値あるもので、その穴を埋めて時間はかかっても部屋を出るだろうと思ってはいた。だがどうも息子の様子は違った。その穴を何かで埋めてしまうのではなく、しばらくたってその穴を大きく見えるようにして、部屋の外に持ち出そうとしていた。今度は私が腫物に触るような気持ちにさせられた。それでも私は自分の経験を伝えることはなかった。というのも、息子は私とは違うことをしようとして理解できず、何よりも私の引きこもり経験を肯定することは、その後の私の生き方を間違ったことと認めることになるからだ。私は正しいことをしたはずだった。それで、私が正しければ、今息子が穴を家の外へと持ち出そうとしていることは間違っていることになる。でも、間違えているともどこかでは思えなかった。
どうも私もこの穴と、今際の際で向き合わなくてはならないようであった。向き合ってみれば、穴はどうも本当にただの穴だった。呼吸ができなくなり、血液の流れが止まり、臓物とこの身体が停止して物となり朽ちていく。正しさとは、この身体の外にあるものではなかった。穴を埋められる正しさはなかった。間違いは正すためにあるのではなく、認めるために間違いはあった。正しさというのは何か他にあるのではなく、間違いを認めることが正しさであった。正しさが他のどこかにあるのではない。間違いがなければ正しさはなく、正しさがあって間違いがあるのではない。そういえば、私の少年時代はいつも悪者が登場してから、正義の味方があらわれるのだったな。正しさではなく間違いこそが本質だった。最期に、私は穴と向き合えて、それを認めることができた。それが、しあわせであった。都会のあかりが奪った夜の星の光、その空の暗闇の彼方へ。
2021年11月20日 髙橋淳敏
10月24日(日)カフェコモンズにて
「鍋」しました!今回は様子を見てみようと材料などはこちらで買っておいて簡単なしょうゆ味の鍋のおだしも用意していました。少ない参加者でしたがやってみて次回からは「集まってからみんなで何鍋にするか考えて→買い出し→材料切り→鍋は離れたテーブルに置いて取りに行って各テーブルには置かない。→片付け」の流れでやれるんじゃないかと感じました。食べるとき以外はマスクで、材料切りをする人やお鍋の近くで作業する人は特に気をつける。目の前に鍋を置いた状態で話をするのではなく鍋の置いてるテーブル以外の場所で食べて話す。次回の日程は未定です。決まり次第お知らせしますのでご確認ください。久しぶりの鍋の鍋の会になると思います。(くみこ)
10月16日(土)11名参加でした。
今回は初めに、参加された方々の自己紹介を兼ねて、ニュースタートに関わったきっかけと、今ご自身で興味のあることを話してもらいました。その後にいつものように皆さんの今の状況などの話をしてもらいました。
自己紹介では皆さん自分の問題というよりは子どものことで来ているのに、自分に焦点を当てて話すということで少し考えながらもいきいきと話してくれた様子もあり良い時間だったなと感じました。特に初参加の方にとってはどんな人が集まってきているのかがわかり安心感もあったのではないでしょうか。
皆さんの話からは、例会では幾度も話し合われてきたことですが、引きこもっている状態にあるわが子が怒りを抱えているという親御さんの話と、無気力に見えて心配だという親御さんの話がありました。
親の言うように(親は強要したつもりはなくても)勉強して大学にも行ったのにうまくいかない。上昇志向でプライドも高くまじめで頑張ってきた人にとって、今の動けない状態の自分を認めることができなくなった時その辛さは親への怒りとして発せられることが多いのではないか。この時に受け止める側の親が今までの価値観でいては、子にとっては分かってもらえないと感じてより怒りは大きくなる。わかりやすく言えば「良い大学=就職=幸せ」ではない価値観が必要で、そのためには親は違う価値観や生き方をしてきた人に出会ったり知ったりすることに本気で取り組む必要がある。親自身がそのことに気づけたとしたら意外と子はもう親に分かってもらおうと執着しなくなるように思います。まぁちょっとわかろうとしてくれたとしても親はもうそれほど変わらんから自分は外に話せる相手を見つけに行こうと。いい意味で、親にわかってもらうことを諦める。親というのはこれから先の自分に必要な相手ではないと切り離せることが重要だろう。
無気力のように見える。何も言ってこない。人にも会わないけどそれなりに自分のやることをやっている。本人はいろんなことを考えながらも生きていて、親が先回りして心配する必要はないのでは。でも話しかけない関わらないということではなくて、親は自分はこういう風に考えている(例えばいろんな考え方の人に出会うことが大事だと思っている、など)は話しながらも、見てしまうと気になるなら物理的に離れて(好きなことをする時間を作ったり仕事に出たり)親が自分自身の人生を生きることが大事なのではないかと感じました。(くみこ)
100代目の総理大臣が決まり、すぐに衆議院は解散され選挙が始まった。夜の報道番組で党首たちが似たような主張をしているのを観ながら、選挙は久しぶりのような気はしたが、この情景はずっと変わらないと思った。成長と分配がトレンドのようだ。一体いつの時代の話しだったか。タイムスリップしたのかな。初代総理大臣は伊藤博文だった。その時は、開国や国の形がテーマだっただろうに。もちろんテレビ討論なんてなかったが、もう一度、そこからやり直せないのかな。いや、冗談ではなく私は開国の仕方が不味かったと考えている。引きこもり問題であれば、出ていった先が不味かったことにも通じている。鎖国のような状態であることも、引きこもっていることもそれが悪いのではなかったはずだ。開国すれば、外へ出ればなんでもいいってことではない。その後、戦争へと至った国の形は、開国時に形成されていた。時を戻すことはできないが、その時に不味かったことを、戦争を経てなお続いているその不味さを、変えてみせることは可能であるはずだ。
9月の終わりに父が死んだ。4月の半ばに病が見つかり、その後、5ヶ月と少しの闘病生活があった。肺がんであったが、それが死に至る病だとしても、父が作った癌であるから、うまく付き合っていく方法もあるはずだと、病と闘うだけではない遅ればせながらの父の身体との対話にも望んだ。が、やはりそれは「闘い」だったと今振り返っても思う。癌は闘っても治らないのではなくて、病との「闘い」は思っているほど単純ではないということなのだろう。父の身体は最期の最後まで丈夫であった。その丈夫な身体が見る見るうちに衰弱していくしかない様子を、そばで見ていることしかできなかった。体の丈夫さは、病に対してなす術はなかった。その早さに、丈夫さに自然の時間を体感した。病は健全な体を存在の根拠にしていた。私とは分かれてある父の身体の全ての機能が停止し、こちら側には戻ってこれないことが死を意味した。父が息を引き取った瞬間だった。自宅で看取り、そのまま通夜をし、葬式の後は焼かれて父の身体は灰となった。3日ぶりくらいに富田町に戻ってきた駅からの帰り道、世界はすっかり変わってしまったように思えた。切り取られた風景はどこも変わらないようにも見えるが、違う世界に迷い込んでしまったようだった。この世界は父がどこにもいない世界であり、父がどこからでも見守っている世界であり、数日前にこの道を歩いた時とは違って、今の私は父の死を経験していたのだった。
コロナウィルスが流行して2年が過ぎようとしている。人間の体に何が起きているのかも分からなければ、世の中一寸先には何が起こるのかも分からない。案外多くの人が涼し気な顔をしているかにみえるが、多くの変化や犠牲が伴ったはずである。そのしわ寄せは一体どこにいっているのか。半分以上マスクで覆われた涼し気目元の下は、涙や鼻水でぐしゃぐしゃになっているのかもしれない。多くの人がコロナウィルスに感染した。多くの人はワクチンを打って、その翌日は寝込むことがあった。仕事や学業にあぶれた人もあれば、その形態が従来のものから大きく変わったような人もいる。そしてほとんどすべての人がマスクをするようになった。だが、その見た目以上に、実際起きたこと以上に、この世界は変わっていないように思う。1人1人が感覚を閉ざし、平穏無事を装ったこの世界に、引きこもっている。この変わらなさは、良いことなのだろうか?多くの人は、この世界が平穏無事であることの素晴らしさを説く。歴史も繰り返す、季節も繰り返す。その中で、自然は移ろい、人は生まれて死んでいく。そうだ、心の開国はまだだったのだ。また、その季節は巡ってくる。今度は間違わないようにしないとね。
コロナウィルスの流行は父の病の発見を遅らせた。入院も経験したが、お見舞いにも行けないような入院は、父の身体だけを切り離して病院に預けることでもあった。それは父にとっても自分の心身を分けてしまうことに等しかった。でも、そのことが最期在宅での闘病を決断することにもつながった。コロナウィルス流行状況下における病院施設の融通の効かなさが露呈されていなければ、父や私たち家族は在宅で父を看取る決断ができていなかったかもしれない。自由を愛し、表向き誰に対しても穏やかな一面はあったが、不文律の多い人だった。仕事ばかりしていて、家庭や社会すらも顧みないその時代よくあった企業戦士であった。火葬場で父の体が焼かれている間に、父の妹から父が高校生の時に教師との関係が上手くいかなかったらしく長い間引きこもっていたことを聞いた。私がライフワークとして引きこもり問題に取り組んでいることを知ってはいても、父は自分のことを私に話すことは一度もなかった。たぶん、引きこもっていた部屋から出るときに父はいろいろと決めごとをしたのかもしれない。父にとって引きこもっている部屋から出ることは解放されることを意味したのではなかったのだろう。父の死や不在を恐れていた母親に対して、私が厳しく当たってしまったことがあって、たぶんそのように最期まで生に向き合うことをあきらめなかった私の態度を父が亡くなる当日に「アツトシはあなたによく似ている」と父の傍らで、母が言ってくれたことがあって、その言葉が父の耳に届いてくれていたら、それだけで私は救われたと思う。
2021年10月16日 高橋淳敏
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