NPO法人 ニュースタート事務局関西

「障害者とは誰の事か」髙橋淳敏

By , 2022年10月16日 10:00 AM

障害者とは誰の事か

病気は治ると言うが、障害は治るとは言わない。治らない病気もあるが、病気は身体や臓器などの状態の異変を意味していて、それは状態であるから良くも悪くも時々に変化する。だから、自然治癒であろうと西洋医学であろうと病気は治ることがある。障害は、身体や臓器の一部欠損などを意味することがあって、状態とは逆で時々の変化はなく変わらないこと意味している。だから治ることはない。「治る」とは、そのような区別があって、比較して分かりやすい。一方で、病気も障害も「持つ」という。「あの人は病気を持っている」とも言うし、「私は障害を持っている」とも言う。この「持つ」という場合、病気や障害が主語になっても区別できないが、どうしても「障害を持っている」と言われていることに違和感がある。たぶん私だけではないんじゃないかと思って、そのことについて書いてみる。
違和感の答えはここでも何度かは書いていて、感覚的にも簡単なことである。障害はその人が持っているものではなくて、その人が持たされているものであるという話しだ。そもそも「障害は持てる」ものではなくて、自分の外にあるか、あるいは社会との間に障害は設けられている。要するに、「障害者」ではなく、普段「障がい者」などとお茶を濁して記述している名詞は「被障害者」と呼ぶ方が分かりやすい。簡潔に言えば、「健常者」と想定されている人にとって過ごしやすく今の社会は設計されがちで、段差や階段なんかは健常者ではない人にとっては「障害」になることがあって、その障害を持たされている人は「被障害者」ということになる。当然、「障害」は自分の外にある。「障害」を持っているか、持たされているかは、その人と周りの環境に依る。「健常者」も、無関係ではいられない。
最近中学校で、今まで障害物リレーと言われていた競技が、チャレンジリレーと言われていることを聞いた。障害者の害の字を平仮名にした時以上の違和感があった。「障害」をないことにしようとしているか、それ以上に「障害」を設けている今の社会に無知であろうとする態度、事なかれ主義以上の積極的事なかれ主義、リスクマネジメントというか、とにかくそこには外にあるはっきりとした「障害」を隠す意図がある。自分たちが設けている「障害」に向き合わないどころか、見もしない。そういう学びが、教育現場で推進されていることに希望はない。それがどんな障害であるかは問わず、個人が隠された障害を乗り越えることにチャレンジし続けることでしかないという狂気もみえてくる。
「被障害者」のことを、生まれながらにして障害を被っている友人に聞いたら、障害者も被障害者も一括りにされている感じがあって、そういう呼び名は気に入らないとのことだった。障害を持っているのではなく、障害を抱えていることであって、もっと一人一人の事情を見るようにすべきじゃないかと言われた。確かに、「ひきこもり」が社会問題であると私たちが主張するときも、一人一人に引きこもる原因があるのではなく、それらは概ね同じではないが共通して、その人の外に原因があると考えているわけだ。それは人ではなく抽象的な社会や家族しかみていない印象はある。障害を持っているのでも、持たされているのでも、その人のアイデンティティとしてある。当事者としてのアイデンティティがあって、可能になるコミュニケーションはある。「ひきこもり」の場合は、その定義が人との関りがないということなので、人前やコミュニケーションの中でそのアイデンティティを持つ矛盾が生じる。
障害は、介護保険制度やバリアフリー化、合理的配慮などがあって外では見えにくくなり、制度化された代償として隔離され隠されるようにもなって、どんどんと拡散し多様化していった。その最たるが、コミュニケーション障害や発達障害と言われるものだと考える。それでも、障害が個人の内面にあるのではなく、個人の外にあるのは変わらない。障害化した学校など、私たちが普段常識的に設けてしまっている障害を取り除けば、コミュニケーションや発達の障害が取り除かれることもある。障害が自分の内側にあるのではなく外にあると考えるならば、障害が治る(直る)ということもありえる。障害を変えることはできるが、それが出来るのは障害を抱えている当事者「被障害者」ではなく、障害を無自覚に設けている私たち「(加)障害者」である。私たち障害者は、障害は乗り越えるのではなく、そこに自分たちが障害を設けていることを自覚すればいい。
社会との出会いなんて明確な出来事はないし、あったとしても覚えてはいないが、社会を意識して、その後どのようにして付き合っていけるのか、ずっと悩まされ続けたことを覚えている。そういった意味で、私というか私たちの世代は「被障害者」でもあった。たぶん幼稚園ごろから、親や学校や近所の人や親戚なんかとの関係の中で、その障害はあった。さしたる能力がなくても、それほど大したことでなくとも働けば、それが人のためにもなり、さして大きくもない承認欲求も満たされれば、食って生きていくことができる、そのように設計されていない社会に対する失望から始まっている。インターネットはなかったが、世界は手元にあった。競争して勝ち続ければ青天井にその世界からより多くのことを享受できるが、競争しなければ負ければ手元にある世界からも疎外される。人と協力して生きるのではなく、人から奪ったり嫌なことを押しつけたりできなくては、この世界では生きていけないという現実はすぐに理解できた。学校で人よりもできるだけ優れた成績をとり、大きな権力と競争力を持つ企業の従業員になることが社会へ出る、社会人になるということだった。その道から外れることは、一人で世界地図にもない荒野を生きることであり、受験勉強をしないで適当にやっていくことは、一生世界の底辺で何かに従属していくことでもあった。それは事実ではなかったが、私たちに社会との間に設けられた障害であったことは事実だ。その被(障)害者意識から抜け出すことは容易ではなかったが、転じて私こそが加(障)害者であったという自覚は、その「障害」は社会との新たな出会いを私にもたらすことでもあったのだ。
2022年10月15日 髙橋淳敏

次回鍋の会10月2日に開催します。

By , 2022年9月29日 7:43 AM

10月2日(日)おしかけ鍋の会 12時~16時 第475

場所:カフェコモンズ 

待ち合わせ:11時45分にJR摂津富田駅改札前

参加費:カンパ制

参加資格:鍋会参加前後に定例会に参加していただけたらと思います。

※集まってから手分けをして鍋を作りたいと思います。

もちろん差し入れなども大歓迎です!みんなで集まりましょう。

9月例会報告

By , 2022年9月29日 7:42 AM

 9月17日(土)の定例会、参加は8名でした。(内3名の方がご家族)ニュースタート事務局関西ではどんな集まりでも、例えば鍋を食べること旅行をすることを目的としているのではなく、それは手段であってそこで必要になるコミュニケーションを目的にして活動している。それこそが大事だと考えているから。他人と会って相手が何を考えているか想像する。1人で引きこもっている時間を長くすることよりはその時間を作っていくことに時間をかける。
 皆様の話からは、高校までも人間関係は苦手な方だったが無事進学して大学や専門学校に行き初めたのに、行けなくなる。理由を聞いてもわからない。なぜ答えられないか、それはたくさんの嫌なこと辛いことの経験が日々こまごまとありすぎて簡単には言えないからだろう。学校に行く、ということは自分でも気づかないうちにたくさんのことを周りに適応させてどうにか成り立っている。「授業で前を見て座る」=「この時間は外に出てはならない→しんどくなったらどうしよう、トイレに行きたくなったらどうしよう」そんなの無視すりゃあいいと思えない真面目な子ほどその不安感は大きくなるだろう。「こうしなくてはならない」は「こうはしてはいけない」になり、学校というのはその連続で成り立っていると思う。それに真面目で人の気持ちが想像できる感受性豊かな子こそ適応しすぎてしんどくなってしまう。感覚をマヒさせて適当にでも学校に行っていればいいと思えない子が、行けなくなってしまう。それはとてもまともな感覚の持ち主なのではないだろうか。
 子どもが引きこもりだす。これはいつまで続くのか、自分たちがいつまで働けるかもわからないし…という親御さんのお話はよく聞きます。「いつまで引きこもらすか」ではなく、その子がどう生きるかが問題であって「5年10年ずっとこのままだったら」と考えるのではなく、信じて背中を押すことが大事だったと他の親御さんから意見もいただきました。前を向いて頑張っているようなそぶりを見せるわけでもない子を前にしてその子の心の中の変化を信じることは本当に簡単なことではない。確認したいし、その子が動き出す前に口を出したくなる。もちろん放っておいてもいいわけではなく、外の世界や他人とのつながりを持てるような場所(学校や仕事とは関係ないことでも)へつなげようとすることは親のできることだろう。そして出ようとするときは前に立ちふさがるんじゃなくて後ろにいて背中を押す。その時親は子供の方ばかり見ているのではなく子どもと同じ方を見て、自分自身も人生を一生懸命生きていて、そのありのままの姿(かっこよく成功したところしか見せないのではなく)を見せ続けることも大事だと思います。(くみこ)

「引きこもらされている場合じゃない」髙橋淳敏

By , 2022年9月18日 10:00 AM

引きこもらされている場合じゃない

社会問題としての「ひきこもり」を解決していくためには、みなで社会を変えていきながら、それぞれの日常生活を大事としていくしかない。その日々は楽しいもので、人生は喜びに溢れてもいる。
音楽を聴くのが喜びである。最近はレコードで音楽を聴く。といっても、どっかで拾ってきた安価なレコードプレーヤーを20年物のCDコンポに、どこにでもあるケーブルを繋いで聴くだけなので、音が高級なのではない。正直、その同じコンポを通してCDで鳴る音と、レコードからの音との違いは分からない。同じ曲をそのアンプとスピーカーで、CDとレコードで交互に再生してみても、何が良いのかさっぱり分からない。レコードの方が雑音を拾うくらいである。でも、なぜかレコードの方が聴いて、楽しいのである。それは、レコードを再生する手間であったり、面倒にその楽しさの理由があるという人もいるけど、そうではなくやっぱり音のせいではあるのだけど、少なくともレコードの方が音がクリアであるとか、解析してに音が良いようなことではない。もちろん録音状態が悪かったり、円盤の加工が悪かったりして楽しくないレコードもある。例えが適切ではないかもしれないが、蛍光灯の光と太陽の光が同じ明るさ(ワット数)で届いていたとしても、その感じ方は違うように、それほどの違いはないがレコードとCDの音も決定的に違う。アナログレコードから伝わる無限の情報は、CDから流れる無数の情報粒とは違って、聴くという人の行為を変えるのだと思う。楽しいというのはたぶんその能動的行為にある。かつてCDを聴いた時にもあったワクワクが、今もレコードにはある。かつては蛍光灯の明るさに感嘆した文明人が、夜更かしをやめて朝散歩を始めたようなことかもしれない。
料理が喜びである。かつては、レシピ通りに作った方が旨いし、ここで酒をこれくらい入れて、どれくらい煮込んでとか、良いレシピがないかと探していたことがあった。しかし、最近喜びを感じる料理というのはそういうのではなくなった。世の中にあふれているレシピの多くは、肉や野菜の味を無視したものが多い。スーパーに並ぶ肉や野菜は、できるだけ均一に無個性で後で味が入るように薄く作られている。まるで工場製品のように大量に均一な野菜や肉が出回っている。それらの野菜や肉に、調味料などで後で味つけをするから、レシピ通りの同じ味の料理が完成する。大量に出回るレシピにとって、薄い規格野菜が必須となる。それらの料理は旨くはあっても、どっか味わいに欠けるというか美味しくはない。正直、そこまで後で味をつけられた野菜や肉が美味しいものなのかどうかも分からない。記号的に大量に生産された肉や野菜は、輸送システムのベルトコンベアーに乗っかって近くのスーパーに届けられ陳列され、レシピに従ってピッキングされた野菜や肉は似たような調味料で味付けがされる。各家庭のキッチンが、工場労働というか流れ作業の末端になり、料理という労働をさせられている感がぬぐえない。自分が作った料理が工業製品のようにも感じる。このように受動的になってしまっては、料理に楽しみはない。レシピに頼らず、この肉だから、この野菜だから、今日はどう調理してやろうかと考えるところから料理は始まる。野菜や肉の味をできるだけ引き出すか抽出して、味見をしながら調理する。化学調味料は補助するためだけに使用する。それだけで、料理という行為は喜びになる。
住まいが喜びである。私は子どものころずっと団地やマンション暮らしであった。最近は、誰が住んでいるのかよく知らないが、タワーマンションであったり高級ホテルであったりをよく見かけたり、その間取りを広報していたりするが、それらを羨ましいとは思わないようになった。それらの基準は、豪華であったり、ゆとりがあったり、きれいであったり、便利であったり、見晴らしが良かったりなんかだろうが、いったん住んでしまえば蛍光灯の明かりと同じで、なければ不便に感じてしまうが、そのような与えられただけの住まいには楽しみはない。私が今住んでいる家は築100年くらいの古民家ならぬただの古い家を改装したようなところだが、自分たちでキッチンなど作ったから配管がよく詰まったり、構造上風通しが悪く湿気やすい部屋があったりと、他にもなかなかに愛嬌がある。だが、一見面倒にも思えるそのメンテナンスに喜びがある。季節によってやることがあり、家もただ古くなるだけでなく進化している。いつまでも完成しないサグラダファミリアに住んでいるようなもんである。模様替えなんてものでもなく、住まいに手を加える喜びである。
コミュニケーションが喜びである。先月はコミュニケーションが目的であるとここで語った。コミュニケーションは人と仲良くなったり、人のことを理解したり、仕事をしたり、職に就いたり、お金を得たりする手段ではなくて、それ自体が目的である。ニュースタート事務局関西で長年行っている鍋の会や訪問活動は、表向きはひきこもり者の支援のために、その目的でやっている。それは嘘ではないが、本当のところは、コミュニケーションのために、その場や活動はある。ひきこもり者の支援が目的で、手段となったコミュニケーションはひきこもり者の支援にはならない。人と仲良くするために、人のことを理解するために、コミュニケーションがあるのではない。目の前の人が何を思っているのか、何が言いたいのかをそれをどうやったら知れるのか、自分が何を思ってそれをどうすれば相手に伝えられるのかがコミュニケーションである。コミュニケーションが上手くいかないのはどちらか一方の責任ではない。一方の責任と考えてしまうコミュニケーションは喜びでもなく、コミュニケーションを否定している。
以上のような楽しさや喜びは、引きこもっていても経験はできそうではあるが、経験すれば引きこもってばかりもいられない楽しさであり喜びでもある。

2022年9月17日 髙橋淳敏

10月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

By , 2022年9月18日 10:00 AM

10月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

10月15日(土)14時から (283回定例会)
場所:クロスパル高槻 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】

 

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