NPO法人 ニュースタート事務局関西

「わたしたちはいつから」髙橋淳敏

By , 2023年1月21日 5:00 PM

わたしたちはいつから

わたしたちはいつから、人のケアを、国の制度や資格による賃労働に依存するようになったのだろう。
わたしたちはいつから、育児を、母親一人の責任にするようになったのだろう。
わたしたちはいつから、食べものを、遠く機械化された大量生産、輸送、陳列されたサプライチェーンのスーパーで購入するようになったのだろう。
わたしたちはいつから、医者に責任を取ってもらわなくては、身体に現れた症状と向き合えなくなったのだろう。
病院はいつから、死を迎える場所になったのだろう。
わたしたちはいつから、多大な犠牲を出したエネルギーに頼らなければ、自らの生活ができなくなったのだろう。
わたしたちはいつから、西洋の方が優れていて、自分たちと似たアジアが劣っているような考えに至ったのだろう。
わたしたちはいつから、人に優劣があるように考えたのだろう。
差別はいつから、差別される側の問題になったのだろう。
わたしたちはいつから、労働で賃金をもらうことになったのだろう。
プロはいつから、素人よりも偉くなったのだろう。
仕事はいつから、協力することではなく、人を助けることでもなく、自分のために奪ったり押しつけたりすることになったのだろう。
わたしたちはいつから外貨を稼ぐようになったのだろう。
わたしたちはいつから、その日の暮らし以上に稼ぐようになったのだろう。
人はいつから、紙に書かれた数字を蓄えるようになったのだろう。
人はいつから、その紙を神や人よりも信じるようになったのだろう。
人はいつから、迷惑をかけてはいけない存在となったのだろう。
友だちはいつから、競い合う存在となったのだろう。
教育はいつから、誰が受けても変わらないテンプレートなものになったのだろう。
民主主義とはいつから、一人の意見が尊重されることでもなく、話し合われることでもなく、多数決になったのだろう。

民はいつから、国家に従属することになったのだろう。
故郷はいつから、国家となったのだろう。
聞くことはいつから、受動的行為になったのだろう。
コミュニケーションはいつから、目的ではなく手段となったのだろう。
わたしたちはいつから、近くの人に関心をもてなくなったのだろう。
わたしたちはいつから、自分たちの住む地域にも関心をもてなくなったのだろう。
わたしたちはいつから、自分の思っていることを話せなくなったのだろう。
思考はいつから、一人でする行為となったのだろう。
精神はいつから、人が所有するものになったのだろう。
子どもたちは何があって、笑わなくなるのだろう。
平和はいつから、戦争を容認するようになったのだろう。
開発はいつから、加害性が問われなくなったのだろう。
誰にでも訪れる死は、病は、苦悩は、老いは、障害は、危機は、なぜ忌避されることになったのだろう。
光はいつから、影をつぶすためのものになったのだろう。
希望はどのようにして、絶望に変わったのだろう。
なぜ恐怖や不信が、私たちを支配するのだろう。
わたしたちはいつから、貧しかったのだろう。
自由とはいつから、安全に拘束された身体の夢になったのだろう。
わたしたちはいつから、引きこもりだしたのだろう。
わたしたちはいつの時代から、自立できていないのだろう。
ここで言うわたしたちとは、一体誰の事なんだろう。
引きこもりはいつから、引きこもることしかできなくなったのだろう。
今、あなたはどうしているのだろう。

2023年1月21日 髙橋淳敏

12月鍋の会報告

By , 2023年1月1日 11:12 AM

12月30日(金)珍しく日曜ではなく金曜日に開催になりました。年末も年末。忙しい時期でもあったと思いますが15名ものたくさんの方が参加してくれました。
 忘年会鍋の会です。この日は持ちよりだったので持ってきたものを並べるだけと思っていたら鍋の用意一式を持ち寄ってくれた方がいて、急きょその場にいるメンバーで鍋の用意が始まりました。他にもかす汁の材料もあり、鍋(豚しゃぶでした)とかす汁という、あったかい汁物たちが参戦。他にはいつも持ち寄りの時に持ってきてくれるウインナーと卵焼きを大量に焼いてきてくれたものや、手作りのおかずやいなり寿司、タコせんべいやたくさんの駄菓子の詰め合わせ、それにアイスやアンド-ナツ、これ絶対食べきれない!食べる前に目でお腹いっぱいになってしまいましたが、15名もいて話しながらゆっくり時間を過ごしていると、あれっ?もうほとんどないね(笑)状態に。食べすぎました。自己紹介では、小さい頃何をして遊ぶのが好きだったかというのが、成長過程でいろんなものを身につけていくけど、結局自分の本来の性質に近いのではないかという話しから、子どものとき何をして遊んだか何をするのが好きだったかなどを話していきました。これは世代の違いや住んでいた場所などによってみんなそれぞれでした。子どものときワクワクしたことを聞くのはこちらもワクワクして楽しかったです。(くみこ)

12月定例会報告

By , 2022年12月30日 11:06 AM

 12月17日(土)の定例会、参加は16名でした。(内5組の方がご家族)
 この日は前回参加された方から会の初めに問題提起をしたいとのことで話がありました。それについて初参加の方も含めてでみなさんで話し合う時間がありました。
 その後冒頭の話では、代表の自己紹介を兼ねて、社会問題としての引きこもりについてお話ししました。子どものときに塾に行き、点数でのクラス分けや席決めがあり、子ども心に傷ついていく。そしていつの間にか隣のクラスの子を前の席の子を自分も点数で見ている加害者になってしまっていたことに大人になってから気がついた。小さい子供の時はこのことに気づかないまま、親にもうまく説明できないまま学校に行きたくないと感じる子もいるだろう。引きこもる原因は、いじめや先生や友達との関係、親との関係だけにあるわけじゃない。もうこれ以上誰かをおとしめたり傷つけたくないから引きこもることもある。
 皆様の話から。
 小学校低学年から不登校気味。高校も大学も続かなくなり引きこもる。小さいときに親が忙しくもありゆっくり話を聞く時間がなかった。それが原因でもあるのかもしれないとの想いから、親は引きこもってしまった今世話をしすぎる。これは悪循環であって、やればやるほど本人の自信を失わせてしまう。自分では何もできないと。引きこもる原因は親がかまってくれなかったからではない。そのことを親は理解して、大人になった子どもに対して一人の人間として対応していかなくてはならない。自分でできることは自分でする。ひとっ飛びにはできないから時間も心もつかってそういう一つ一つを家族で話していくのも大事なのではないか。
 勉強はよくできて高校3年になり引きこもりだした。勉強だけが自信になっていた子にとっては、やりたいこともなければやる気は続かなくなる。受験用の勉強ができるというのは、生きることにはつながらない。例えそのまま大学まで行ったとしてもそこで立ち止まってしまうだろう。個性を生かせる働き方を想像できないと本人はやる気がでない。いろんな生き方をしている大人を見たり話したりできる環境が大事だろう。ニュースタートが大切なこととして掲げている「家族を開く」ということとは、親以外の大人に出会うこと。親が見ていないところで物事を判断して失敗もしていけること。その時に他人に頼ったり助けられたり、時には誰かの役に立てることで子どもは自信を持つことができるのだろう。(くみこ)

1月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

By , 2022年12月18日 10:00 AM

1月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

1月21日(土)14時から (286回定例会)
場所:クロスパル高槻 5階 視聴覚室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】

「流浪の民」髙橋淳敏

By , 2022年12月17日 5:00 PM

流浪の民
 コロナもなく、共同生活寮もあったころ、私たちはよく旅をした。旅をするために、日常があったとは言い過ぎかもしれないが、私たちにとっての日常は、それだけではとてもつらいことであった。何よりも日常生活では、協力することがやりにくかった。掃除当番とか、料理担当とか、協力と言えなくはない役割分担はあっても、日常的には、誰かがやってくれるものか、あるいは自分がやらされることでもあった。人と協力する必要のない日常においては、引きこもっていた方が楽だ。人と関わりたくないから引きこもる。でも、人と関わる以外に引きこもりから出る理由はない。私たちには引きこもっている所から出るだけの、守るべき日常生活はないように思えた。目的もなければ私たちはなぜ外に出なくてはならないのか、なぜ働かなくてはならないのか、何のために学ばなくてはならないのか。そんな奴は野垂れ死んでくれてかまわないと、社会は何度も私たちに引きこもることを要請してきた。私たちはその日常でもがいていた。表れては消える食欲や、性欲に悩まされ、生きたいという気持ちも消えてしまうことはなかった。湧き出てきても消えない欲望は、引きこもりたい私たちに問題を引き起こした。その度に、日常から引きはがされ、私たちは日常的に非日常を経験することになった。分かりえない非日常は私たちが協力する機会でもあった。
 そう旅である。旅は日常のネガが、まるで写真に映し出されたかのようにしてポジティブに現れる。いつも大勢で旅に出ていたので、最低限の準備は楽しくもあった。Tさんは、自前のクイズを用意して夕食後に披露することが何度かあった。そのクイズの中で今でも覚えているのが、「日本で一番偉い人は誰か」というシンプルな問いであった。Tさんは普段からふざけることが好きな、子どもっぽいところもあったので、「まさか総理大臣なんて答えさせるわけじゃないよね」といらぬ心配をしたこともあって、私も含めて誰も答えられなかった。こんな質問の答えに、なんて突っ込めばいいのか。内心、少し冷や冷やしていた。そこでTさんは得意げに、「あなたたちだ」と言わんばかりに、たしか国民と答えた。国民はどうかとも思ったが、Tさんの言いたいことは良く分かった気がした。同時に自らが今まさに、抑圧されていることに気づいた人も私だけではなかったはずだ。これも旅の中だからできた企画で、日常的にこんなことはできないだろう、できてもこれほどの感動はないだろうと思った。
 「民主主義は多数決だ」と、それこそ私が普段から偉いと思っている少数派を自称するTさんではない友人が言った。確かに、今の議会制民主主義は、代議士が議会で議論する仕組みではない。そこで行われていることは単純に多数決であり、やっても数合わせである。でも、Tさんが言ったように私たちが一番偉いのであれば、それを民主的というのであれば、少数者の意見は議論もされずにいったいどこへいってしまうのだろうか。表に出てくることはないのだろうか。

民主主義がただの多数決というのなら、それは多数決主義であって、民主的とは言えないのではないか。なぜって、その仕組みは多数派が偉いということになってしまうではないか。今の議会制民主主義は少数派を多数派のやり方に強制する仕組みである。というのなら、分かる。でも、たぶんその仕組みは変えることができる。でも、一体どうやって。答えはシンプルだ。国会で議論しないのなら、私たちが平場で言いたいことを言って、議論もすればいい。自己顕示欲や、人気取りになっていしまっているSNSなんかではなく。民主主義を体現できる平場というプラットホームはもうすでにどこにでもある。でも、そのプラットホームをなくしていこうとするのは、多数決主義の今の議会制民主主義でもある。抵抗するためには、そう、ちゃんと言いたいことが言える路上や広場に変えて、集まるしかない。
 そう旅であった。旅は人の日常に触れる機会でもある。そこでは旅人はよそ者であり、少数派である。だが、その出会いは、今の多数決主義なんて簡単に乗り越えてしまうことがある。普段、感じることができない私たちが偉いという実感も生まれる。そう、抑圧から解放される。こういうとき、私たちは十分に民主的だと思える。そう旅は民主的だ。
2022年12月17日 髙橋淳敏

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