NPO法人 ニュースタート事務局関西

「閉じた身体、ひらかれた精神」長井潔

By , 2015年10月19日 10:00 AM

通信の前号で高橋淳敏氏は「社会との関わりの中でしか病気は治らないのに、精神科医は精神が個別で所有できるものだと考え、精神病院の中に入院隔離して、病院の中で一般的に問題がない状態にまで、薬や療養で精神を個人の身体の中に抑え込む」と論じた。精神病と言えば医療の言葉だし、医療と言えば投薬や難解な手術などして個人を治療できる権威だから、厳しい批判に対して違和感を持たれた人もいるのではないか。この論点「精神を個別に所有できると考えるのは間違い」かどうかをあらためて考えてみよう。

 

まず身体の徹底した閉じようを考える。身体は他者と交流できるだろうか。ほぼ全面的に不可能だ。不可能にしている身体独特の機能を「免疫」という。他からの侵入を頑なに拒絶する何重もの仕掛けのことを、「免疫の意味論」の著者多田さんは「超システム」と呼んだ。防御は完璧なので、患部を他者から移植するよりも自分の細胞を変えて作ろうとするIPS細胞の研究が発展してきた。

 

このように身体が閉じていることは科学的に解明されている。身体は徹底して閉じているから、治療対象は個人とすればぴったり一致する。そしてこの枠組みを医療は安易に精神にも持ち込んだのだろう。

 

しかしそれならば精神がひらかれていることを科学は立証しているのか。オキシトシンは興味深いホルモンだ。出産時に大量に分泌され子宮の収縮を助けるホルモンとして発見されていたが、もっともっと広範な愛着に関わる機能を持つことが分かってきた。母と子のスキンシップにより母と子双方にオキシトシンが大量に分泌され、双方に安心感を与える。男性に優勢のホルモンは別にあるが男性もオキシトシンを持っている。笑顔を見ると見た人にはオキシトシンが分泌される。オキシトシンを分泌させた個体の近くにいる個体はそれだけでオキシトシンが増える。オキシトシンは個人から他者へと交流する中で広がっていく安心物質なのだ。スキンシップが親も子も安心させたり、一人よりも二人でいる方が安心なことなど、昔から誰でも知っている。他者との関わりが大事なことが科学の言葉でも語られてきた。オキシトシンが活躍する場は個人を超えた「超システム」だ。

 

身体は徹底して閉じているから手足が切断されたりなど大きな障害を受ければそれが治ることは一生ない。精神は障害を受けても個人で閉じることがないから治る可能性もまたひらかれているのだ。他者といかによりよい関わりができるかにかかっている。

 

ところで今年から日本の研究機関がオキシトシンを知的障害者に注入する検証試験をはじめた。生物は双方向につながるためにオキシトシンを進化させてきたのだから、個人にこれを注入するより他者とスキンシップする方が効果も高いだろう。しかし今後医療はこれを薬にしてひきこもりや障害者に売り、また個人病理モデルでひと儲けするだろう。

 

あなたは、オキシトシンを買いますか?それとも友と手をつなぎますか?

 

 

11月の定例会(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

By , 2015年10月18日 10:00 AM

11月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)

11月21日(土) 14時から (202回定例会)

場所:高槻市総合市民交流センター(クロスパル高槻) 4階 第4会議室

当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。

参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら

※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。

【高槻市青少年センターと共催で行っています】

「行き詰まり」  髙橋淳敏

By , 2015年10月18日 10:00 AM

高齢者や障がい者福祉、子どもの貧困、非正規化労働など、私たちはかつてよりも孤立させられている。それも「自ら望んで」と分断が巧妙になっている。困って助けを求めようとした時に、かまってくれる人はいないし、そもそも助けを求められない。自分を守るための監視はしても、どうやったら助かるかも分からない。人間不信。とにかくこの状況から脱したい。そんな時には制度に頼るしかないのだろうが、福祉が充実しているわけでもない。国の歳出は限界を超えている、それでも問題の垣根を越えて声を上げていくしかない。いったい、私たちの生をむしばんでいるものは何なんだろうか。生きようとする活力を日々そぐものは何なのか。そのようなことを引きこもり問題を通じて考える日々。

 

どのようにしてまかり通っているのか分からないが、国の一般会計の収入の多くをいつの間にか国債によって、まかなうことになっている。バブル以前はたぶんあまり目立ったものでもなかったのだろうが、バブル崩壊直後1990年初頭の2年間くらいは国債に頼ることのない収入になっている。それ以後は、その時の収入の水準を保つために、税金などで足らない分を再び国債で補てんしだす。そして、今となっては収入の半分ぐらいを国債によってまかなっている。知っての通り、当然借金は雪だるま式に増えていく。手元には1995年からの推移しかないが、この借金は減ったことは一度もない。ここで何が問題かというと、借金の多さではなく、国は今でもバブル期の運営を維持しているということで、それがためにずっと国債に頼るしかない体質となっていることだ。失われた20年というのは単に経済成長しなくなったということではなく、この国の運営方針がその当時のままで、できもしない幻想を追っているからこそ、失われ続けているのではなかろうか。

 

アナリストと言われる人や、高度経済成長期を支えてきた人なんかの話を聞くと、それでも日本は国債を国内で買っているので大丈夫だなんて話をする。その人が国債を持っていて債権を放棄するからというなら話は別(いやもはや利息だけでも大変だ)だが、そうでもないなら結局は未来の人に対する借金となる。国会は毎年特例公債法というのを制定し国債を発行し、未来を日々けずらなければ私たちは今を生きていけない体質となっているし、社会保障などそのような運営を余儀なくされる。今を削っているのではなくて未来を削っている。そして、削られた未来によって現在が借金によって縛られる。まだ見ぬ希望を食って。それに加えて、まだ見ぬ人のためにと道路なんかを作っているのであれば、目も当てられない。現在の問題に国債で得た金を使わず、もうかりもしない博打のような投資金融経済を前に打つ手はないし、もうさんざんだ。

 

国会議員らがやっている議会なんてものは、ここ60年何にも変わっておらず、望む望まないにしても彼らはずっと大企業や財閥を優遇するための政局をだけ戦っていて、われわれはその茶番を飽きるほどにずっと見させられている。彼らにとっての庶民とは、未だに期待値としても大企業で働く正社員のことなのだ。引きこもりの話しなんていうのは、その正社員家族の子どもの問題でしかなく、ニート問題は単に大企業の下請け非正規労働者を増やすための訓練のことでしかない。

 

企業社会で役に立たないものは外へ出る価値はないと、国の運営に任せていれば引きこもりは病者や障がい者とされるのがおちだか、家がなくなればそのような社会で逃げ場もなく、勝ち目のない戦いを永遠と強いられることになる。そもそも、親の家がなければ生きていけない社会で、自立なんてことがどのようにして可能だと言えるだろうか。子どもや高齢者に対しても容赦ない。高齢者の口を封じ、国民教育なんてことがまた叫ばれようとしているが、将来につけを残す国がその借金の返し方を教えられなければ、踏み倒し方しか教育できないはずだ。国が一丸となって逃げ場もなくなれば、いじめるものがそのつもりはなくとも、いじめられるものは死をもって自らの生の決断しようと考えてしまうかもしれない。お金も身寄りもない高齢者は、今後はもっと過酷で孤独な生活を強いられよう。

 

財務省のホームページで、国の一般会計を月収40万円の一般家庭の会計にたとえたものがある。この話、ずいぶん前にも聞いたことがあったが、まさか財務省が出しているものだとは知らないかったので、改めて紹介します。おぞましい家の絵があって図で説明してある。平成23年度、40万円の収入で、75万円の支出、ローンの残高は6348万円だと。ここから読み取れるものは、国の財務状況は大変なので、皆さんできるだけ自己責任で国を頼らずやってください、税金いっぱいとっても文句言わないで、いっぱい稼いでください、てなもんだろうか。

 

私たちはむしばまれた未来を前に今を戦わざるをえない。希望は過去の自分たちによって今も失われ続けている。ギリシャのようにデフォルト宣言することもままならない。行く手は過去となる現在によって完全に阻まれている。

 

家族をひらき

学校を解体し

仕事を分け与え

引きこもりを解放せよ

「世間の目」  長井 潔(10月号分)

By , 2015年10月14日 10:00 AM

ひきこもりの若者やその家族が家族の中でお互いに軋轢を感じていることが多い。親子の軋轢について、何を原因と見ようか悩ましい話になったりする。

日本全体でも家族の中での争いや事件が目につく。2013年の殺人事件検挙件数のうち、被疑者と被害者の関係が親族間である割合は53.5%。2000年以降も殺人事件は減少傾向だが、親族間の殺人事件は上昇傾向だ。最近は若者が親を殺す例が目立っている。この傾向の原因を個々の家族だけに見るのは無理がある。親子の軋轢について、個別の文脈から見るのでは理解不十分であるならば社会の側からの文脈、つまり長引く不況による経済的困窮、などに原因を見るか?

社会に問題はあるが、この国には最終的なセーフティネットとして生活保護の制度もあれば自己破産という方法もある。苦しい選択肢かもしれないが経済面だけを見るなら解決策はある。まして大切なはずの家族の命を奪うなんて事件にまで発展するはずがない。ここには何か飛躍がある。経済の文脈では片付けられない何か別の文脈が潜んでいる。

そこで思いだされるのが「世間に合わせる顔がない」「世間に対して恥じぬよう」という言葉。世間の文脈が今も日本人を動かしているのではないか。

若い世代にとって「世間」はわかりづらい。しかし「空気を読め」と彼らはよく言う。非日常の状況で空気がその場を支配することは昔からあった。山本七平は、太平洋戦争の開戦や戦艦大和の特攻は場の空気によって決定されたと書いている。今は学校の教室にさまざまな空気が充満しており、生徒は息苦しく毎日を送る。現にいじめ自殺は仲良しグループの「中」で起こることが多くなってきた。

実は「空気」とは「世間」の流動化した姿だと考えられる。世間や空気という言葉に相当する英語はない。これらは日本にしかない、日本人を律する文脈だ。「ひきこもり」が日本と一部の外国にしか存在しないことと相似形だ。

ひきこもりの親子の間の軋轢も暴力も、その怒りを本当に向けるべき相手は世間だろう。ところが彼らは親子ともども、世間を前にして恐れおののいている。親子ともに「このままでは世間に合わせる顔がない」と無意識に当然のように考えており、他の考え方や行動の可能性が見えていない。

子供は世間への窓口、あるいは世間を代表する存在として父親を見るから、軋轢の矛先を父に向けてしまう。父親としてはそのイメージを壊さなければ厄介なことが起こりそうだ。自分は決して立派ではないと、大げさに何回も繰り返して表現しなければ子供を圧迫し続ける。自分がいかにいつも外で気苦労を重ねているか、それでも何とかやれているとか、世間をうまくかわしたりさぼったりする方法など伝えるくらいがよい。

若者は、自分の感覚を疑うことが必要だ。あなたをひきこもらせた真の原因が、あなたや家族の中にはなく、社会のいたるところに存在する、目に見えない、不定形の、「空気」を発生させている、この国のかたちにあるのだとすれば。

「近所の目」  長井 潔(9月号分)

By , 2015年10月13日 10:00 AM

前回、家族の中の固定化してしまった文脈が変更されることをきっかけに社会に出た若者の話をした。親子でなくても周囲との固定した人間関係の文脈はある。その関係に息苦しさを感じる場合に、私たちはその文脈を変更できるだろうか。
わが家の斜め向かいに、玄関前に座って道行く人をいつも眺めているおばさんがいる。おばさんはあまりにいつもいるのであいさつがやりにくい。他のご近所さんと話し込んでいることも。自治会ではよく運営に注文を付けるタイプ。わが家に注文が来たこともある。長く伸びすぎた木の枝を切れと言うが、忙しくて放っておくと、ある日勝手に切ってから、切ったよと言ってきた。イラッときたし、あいさつなどもよけいにやりづらくなった。

 

近所の人とはひきこもりの若者が苦手とする「半知り」の人である。以前にニュースタートに通っていたある若者は、近所の人の視線が気になってなかなか外に出られなかった。時間に遅れて来た時「例のおばさんが外に出ていたからいなくなるまで外に出られなかった」と。彼は強迫的な観念が高じているのか、近所で自分に関するよからぬうわさがおばさんを中心に飛び交っている、なども話していた。

わが家の道路の前で座るおばさんもそういう感じの、私にとって厄介な存在だった。
きっかけは、ある日テレビで放映していた空き巣事件に関するドキュメンタリーだった。いわくどのような手口で入るのか、入りやすい盗みやすい家はどんなものか。それを見ながら私はため息をついた。というのもわが家では飼い猫がよく外に出かけたがる。朝に猫が先に出ていると、ガラス戸を少し開けたままにして出かけることになる。不用心だが解決策はない。
よくこんな不用心な家が無事でいるものだ、と思ってはいたが、今回テレビを観て、やっぱりおかしいとあらためて思った。テレビの事例と比べたらもう、この家は絶対に空き巣に入られているはずの家だ。なにゆえ今まで無事に来ているのか?

 

テレビ番組で報じられていた空き巣の例はオートロックの高層マンションだった。しかしこの家はそういう地区にはない。近所の目が光っている。おばさんが平日の昼間から私の家の斜め向かいの玄関先に座って道行く人を見ている。ということは、あのおばさんはこの地区、しかも特にわが家をいつも守ってくれていたのだ、だからわが家は10年以上も空き巣に出会わなかったのだ・・・。

おばさんに対する気持ちは自然に変わった。

 

ある夕方近所まで帰ってくると、おばさんがある男性と口論していた。男性が畑作業のごみを勝手に捨てているのではないかと疑っていた。私は例のごとく聞かないふりをして通り過ぎた。いつもだったらこのようにやりすごすのだが、今回は戻っておばさんに詳しく事情を聞いてみた。あいさつ以外の会話をするのは何年ぶりだろうか。おばさんは一通り心配を話した後で私の家族の近況も聞いたりする。長い立ち話になった。

今後私とおばさんの間にある文脈は「やりにくい近所の人同士」から「やりにくい近所の人をともに懸念する近所仲間」に変わるのではないかと予想している

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