「試練を終えたあなたは大魔王の洞窟の入口に。大魔王を倒すためにあなたは一つだけ武器を持てます。『資格』『学歴』『技術』『言葉の剣』『心のマント』どれか一つだけを取って入りなさい」
とうとうここまで来たのか。とはいえ武器らしい武器がない。どれにすればよい?
「資格」は入口にたどりつくためには使える。でももう入口には来たのだ。大魔王と闘うためには使いこなせないと。大きければ大きいほど難しいのではないか。
「学歴」は履歴書をしっかり埋めるし中に入れてくれと声を大に叫べるかもしれない。しかし中に入れることがわかっていれば関係ない。武器とは別物だ。
「技術」は闘いに使えるかもしれない。ただ大魔王がどんな敵なのかまだわからない。合わなければどんな技術も無駄。技術は身につけてから闘うものではなくて、闘いながら身につけるものだろう。
「言葉の剣」はどうだ。大魔王のふところに突き刺す言葉の群れ。ズタズタに切り裂くかもしれない。ただし相手も同じ戦術を取るかも。同じだけこちらもズタズタにされ、どちらか倒れるまで繰り返される消耗戦に。
「心のマント」かあ。言葉の剣から守るためのものか。これは武器なのか?頼りなさすぎないか?まあ消去法でこれに、決めた。
…やられたよ。大魔王もマント着ているよ。なになに?
「発達障害」
「ニート」
ふん、そんな言葉でマントを着た心は動かされないね。
「おまえを信じている」
「おまえのことが心配なんだ」
ムズムズする。なんとかやりすごせた。
「正規雇用してやろう」
おっ…とだまされないよ。マントを着ているから見える、その黒い腹。
今度はこちらから攻撃だ。
「バカ」
「年金の食い逃げ」
「語るは自分の経験のみ」
「信じるだけで何もしない」
「本当に心配なのは自分」
いやあ、効かないね。どうしよう。手玉がない。やけの一手だ。
「ありがとう」
…倒れたよ。一発だ。この言葉にはマントを通す力があるのか。
洞窟が消えた。村人たちが駆けつけてくる。
「ありがとう!」
「助かりました」
「ごくろうさま!」
「また手伝ってくれないか」
うわあ。体中があったかくなってきた。
あれ?村人の言葉はすべてマントを通り抜ける。村人はコツを知っているの?みんな心のマントを着ているとか?いや着ていない。
これらはきっと、もともと地域で暮らすための言葉なんだ…。
ふう、あったか過ぎる。このマント、脱いでみよう。
「最近の若者は…」
さぶっ。
2015年12月17日 長井潔
大学の進学率が数年前から50パーセントを確実に超えるようになってきた。女性の方がいまだに割合と人数は少ないながらも、あまり変わりはなく進学率の増加傾向は同じと言える。進学率はいわゆる浪人生なども含むのだろうが、現役入学と言わなくとも同年代の半数は20歳までに大学へ入学することになるだろう。大学というのは義務教育でもなく、名目上はしたいことを勉強したり研究する学びの場である。それだけの人が、しかも高校を卒業して直後のタイミングで大学に行くのはどういうことなのだろうか。引きこもりの問題にかかわっていると、大学なんて本当は行きたくないとか、行き場がないからとか、皆が行くからというので大学に行く人が、かなり多くいる実感がある。なぜ大学に行かなくてはならないのかと、まじめに考える人ほど、高校までに不登校になったり、高校卒業直後に大学に行けなかったりすることはよくある話しである。
高校も義務教育ではないが、教育は大学の方がより放任である。そこには教授と呼ばれる人や学生課などで事務仕事などする人はいても、いわゆる小・中学校の時にいた「担任の先生」はいないので、教育がないとは言わないが教育の仕方はまるっきり今までとは違うはずだった。だが、大学へ期待することが、通おうとする本人にとっては就職すること、親にとっては子どもを通学させること、企業からは職業教育をしてもらうことと、その目的が露骨になってきていて、本来はいわゆる「教育」なんかができない大学教員が難しい学生対応をさせられたり、キャリアコンサルタントを雇い企業研修のような職業指導を行ったりしている。それでも、「教育」を担当している人でもいなければ、これら大学に対する期待や試みはばらばらで空転するだろう。そんなこともあってか、最近では就職率でだけ大学が評価されたり、親が子どもの出席をネットで監視できたりと、受益者として関わっている一定の外部が大学を管理できるようになっている。さらには監視カメラが教室にあるようなこともあり、大学は学問を探求するところにも関わらず、自由な発言や活動ができない場になってきているようだ。これは、大学がひらかれているのではなく、企業や学生の親から遠隔的に欲望を操作されているくらいであって、中学生までとは決定的に違うだろう「自治」などの、本来の大学教育の場は失われている状態にあるといえる。以前はまだ社会へ出る前のモラトリアムのような役割を果たしていたが、今では会社に入る前に研修する場所となりつつあるといったら分かりやすいか。
勉強したい研究したいという学びたいすべての人に大学はひらかれているべきである。大学は企業の教育や人事の肩代わりをするところではない。教育や人事をコスト削減などと言って軽視し、怠慢を働いている企業の言いなりになっているようでは、大学を卒業して会社で働く人のためにもなりはしない。さらには今となっても大学へ進学しない、できない人も半数近くはいるのだ。経済的に低迷しているこの間に、ほとんどの大学で学費が上がったにもかかわらず進学率が上がったのは、子どもが減ったのと、職場環境など将来の不安であって、学びたい人が増えたからではない。大学を卒業していない人が、大学を卒業した人より経済的に貧しい暮らしをさせられる事実を、大学教育ではどのように考えるつもりなのか。
20年前には、この先子どもが減るので今ある特に私立大学はつぶれるのではないかとまことしやかに言われていた。潰れる大学ランキングなんて本も本屋に平積みにされてあって、誰が読むのかよく売れているほどであった。それでも大学が潰れなかったのは、グローバル金融経済が金自体に価値を産ませ、ろくな仕事をせず退廃していった日本の企業団と大学が組みしてきたからである。大学なんて就職予備校だとか、専門学校の方が資格も取れてまだいいとかいう大学批判は、もはや批判でもない。入学案内のトップページに、卒業生の就職状況(どの企業に何人入ったかなど)を載せ、学内に大資本のチェーン店を呼び込む一方で学生たちが持ち込む酒などを禁止したり、文系学部は無用だから廃止すると言われてしまったりと、その大学の姿は企業連合に首を垂れて拝んでいるのか、お尻をだして叩いてくれといっているのか。それを恥ずかしいと言わずして、大学に行かない者が恥ずかしめを受けるなんて如何なることなのかと訴えたいが、どこへ出ていっていいのか分からないほど、大学信仰は現代の広汎な先行き不安を悪い意味で抱え込んでしまっている。「大学にさえ行けば…」「大学くらいは…」など。
我々は大学生の不登校を考える会として17年前に始まった。不登校の大学生を大学に行かせようとしたのではなく、不登校になった大学生こそ現代の社会の先行き不安に直面せざるをえなかった者として、その当事者として支援してきたのである。親は大学不登校にさんざん悩まされながらも、本人が元気になるとまた大学へ行かせようとしたり、ある人は大学をやめたり、再び新たに大学へ行ったりする人もあり、大学を巡りいろいろなことが今までもあった。私も学ぶ場が欲しかったので、コモンズ大学という試みをカフェコモンズで今でも週一回続けさせてもらっている。それで、今の大学に振り回されないためにも自分たちで学ぶ場を作ればいいのだと思っていたが、大学を巡る状況は変わらず上述したように強化されていて、新たな引きこもり問題においても相変わらず大学のことが話題となり、それは17年前とあまり変わりはない。そして、今度は既存の大学の中に入りこんで私たちは引きこもりの集まりを持ちたいと今考えている。具体的には、来年初めの特別例会の第2弾として、「大学をひらく」試みを始めたい。案内はまたこの紙面にも。
2015年12月18日 高橋淳敏
1月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
1月16日(土) 14時から (204回定例会)
場所:高槻市総合市民交流センター(クロスパル高槻) 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
【高槻市青少年センターと共催で行っています】
本年ラストのゆるく話す会は12月25日(金)に決まりました。
カフェ・コモンズで14時から行います。参加費300円(ワンドリンク付き)です。
今回はクリスマスにやっちゃうんですが何も特別な事は考えていません。
なので肩の力を抜いてご参加くださいね。
申込みは事務局まで。
事務局は12月28日(月)~1月5日(火)までお休みとさせていただきます。
※1月の父母懇談会は第2週目の9日(土)とさせていただきます。