・12月29日(金)忘年会だよ鍋の会 第488回 ※17時~
○この日は夕方からです。持ち寄りになります。お勧めの一品や手作りの一品など食べ物でもお酒など飲み物でも大歓迎です!こちらでも飲み物やキンパなど用意しておくつもりです。持ち寄れない方でも大丈夫です。カンパなどお願いします。
初めての方でも大丈夫です。今年も一年がんばった。みんなで集まりましょう。
ぜひご参加ください。
参加費:カンパ制
待ち合わせ:16時45分にJR摂津富田駅改札口辺り
場所:カフェコモンズ
参加資格:鍋の会前か後に引きこもりを共に考える交流学習会に参加
・1月14日(日)餅つき鍋の会 第489回 12時~16時
この日は餅つき機でお餅つきをして、できたてのお餅とあったかいお鍋を一緒に食べましょう。
できたてのお餅は絶対食べすぎてしまうほど美味しいですよね。
みんなで集まって美味しいものを食べましょう。
参加費:カンパ制
待ち合わせ:11時45分JR摂津富田改札口
場所:カフェコモンズ
12月16日(土)の定例会、参加は9名でした。(内4名の方がご家族)
冒頭は引きこもり問題や訪問活動について。個人の能力不足や怠慢などで引きこもっているわけではなく社会の側に問題はあるので、引きこもり問題は家族だけでは解決できない。ニュースタート関西がやっている「訪問活動」とは。訪問者が無理やり本人を引っ張り出してどこかに連れて行くとかではなくて、その人にとって必要なことをしに行く。それはちゃんと対等に人と話ができる機会や相手。一緒に考えたり何かをやるような関係。この時難しいのは本人になかなか信じてもらえないこと。普段の学校や社会などでの対等ではない関係、消費者とサービスなどに慣れてしまっていて「話をしに来た。話を聞きに来た。」と言ってもそうじゃないんだろうとあやしまれる。それを分かってもらうためには親とは考え方が違うことなどを態度で示す。そして何より家の中に他人を入れると空気が変わる。毎日安定して同じように過ごしていけるように家族が知らない間にも作っているものがグラグラと崩れそうになる。その時に出てきた問題にどう向き合うかが大切だろう。
皆さんの話からは。引きこもっている時に、家での役割がないこと(家のことは全くしてくれないという親御さんの話や家事をさせてくれないという当事者の方の話もあった)や家のことを分担してしっかりやってくれているというどちらの話もありました。ありがとうと言われるようなことができているということはできていないということで自分を責める気持ちは少なくなるかもしれないが、やはり家族の中だけでは足りないものがある。他人から頼られたり、頼ったりするなかでの関係が自信を持つことに繋がったり、自分を肯定できたりするのだろう。他人と出会っていくためにも、同じ家の中にいる家族ができることは背中を押すことなのだろう。(くみこ)
1月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
1月20日(土)14時から (298回定例会)
場所:クロスパル高槻 4階 第4会議室
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。
詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
われらは愛と正義を否定する
このような過激にも思われる行動綱領を示したのは、10年前に亡くなった青い芝の会の横田弘氏である。タイトルにした言葉は綱領の3項目目なのだが、その説明としてこう続く。「われらは愛と正義の持つエゴイズムを鋭く告発し、それを否定する事によって生じる人間凝視に伴う相互理解こそ、真の福祉であると信じ、且つ、行動する(青い芝の会神奈川県連合会の会報『あゆみ』1970年10月25日付)」。このころの青い芝の会に何が起き、彼らが何を考えざるを得なかったかは、1項目目「われわれは自らがCP(Cerebral Palsy:脳性マヒ)者であることを自覚する」に色濃く出ている。そこには自らが現代社会に「本来あってはならない存在」とされつつある認識を原点とすると書かれてある。「本来あってはならない存在」として自らを認識し、そのような規定をした社会に通用している愛と正義を否定する。そのことよってしか横田らは、行動し生きることができなかった。いや、その頃の彼らの行動を知れば、猛烈に能動的に、このろくでもない社会を精一杯生きることにしたことが分かる。
全部で4項目ある簡潔で短い行動綱領が小さな会報の中で掲載された5カ月前に横浜で障害者殺し事件が起きた。何度も自分の文章でも取り上げたが、今回もこの「愛と正義」について考え始めたので、ここでも事件の概要を記しておく。1970年5月横浜市金沢区で2人の重症CP児をかかえた母親が、当時2歳になる下の子を絞殺した事件があった。そして、1人でさえ絶望的になってしまうこともあるCP児の子育てを、2人も抱えた悲劇的な母親のために、減刑嘆願運動が起きた。私はギリギリ産まれてもいないが、当時は沖縄もアメリカの占領下にあった時代で、ベトナム戦争もあり学生運動や反戦平和運動、労働運動など、市民活動もピークにあった時期という背景もあっただろう。そういった時代に彼らが羨望と疑いをもって見ていたのもかもしれない。そして、殺される側の論理として、今でも鮮烈に感じることができる彼らからの主張がされる。以下は私の意訳が入る。CP児が殺され、別の原因や犯人が追及されることなく減刑嘆願運動が起きるのは、CP児は育てるのが大変であれば殺されてしかたがないということだ。少なくともその命は比較され軽視されている。母親に同情する減刑嘆願運動が「愛や正義」の名のもとに行われるのであれば、彼らは「本来あってはならない存在」でしかない。この事件とその嘆願運動によって、彼らはこのままでは殺されることを突き付けられ、命がけで自らの存在を主張するに至った。
引きこもりという名詞が「引きこもる」の動詞から派生した行動綱領のようにも見れば、彼らほど追い詰められていて能動的とも、自らで決定できる行動とは言い難いが、この4つの項目は引きこもる状況とオーバーラップする。戦後の経済成長期の彼らは、一方で人権運動などの希望もあっただろうが、「労働力」やその協力者とも見なされない邪魔者のような扱いで肩身の狭い思いをしたはずである。「ひきこもり」も高度経済成長が終わり、「労働力」としては不要になった社会に現れた名詞である。一方で福祉制度のような希望とも言えない延命装置を作ったが、「労働力」自体が不要となり、引きこもるという行動綱領に追い込まれた「ひきこもり」は、社会的には「本来いなくてもいい存在」でしかない。父親が引きこもる子を殺したり、引きこもる子が殺される前に親を殺して心中するなどの多発する事件を見ていると、「本来あってはならない存在」にまで追い込まれているように思う。青い芝の会が「愛と正義」によって追い込まれて、開き直るしかなかったように、引きこもる行動綱領にも居直るようなことが大事なのではないかと思う。「本来いなくてもいい存在」として突き付けてきた社会に、それでも私たちが生きていることを態度でもって外へと示す。例えば、今やっていることが籠城戦に近いのであれば、何に抗っているのか、何と争っているのかを少しでもはっきりする。
実は今回「愛と正義」について考え直そうとしたのは、引きこもりのことでも青い芝の会のことでもなかった。先月の沖縄であった反戦の県民大会で「争うよりも愛しなさい」というスローガンを掲げていたのと、連日報道されているガザの状況を見てのことであった。「争うよりも愛しなさい」とは若い世代の反戦運動への参加を呼びかけてのことと聞いた。私はやらないので知らないがSNSではこのスローガン周辺がいろいろと物議を呼んでいるらしい。だからもう誰かが言っているようなことなのかもしれないが、この争うことと愛することを天秤にかけ、しかも最後に「愛しなさい」と指示か命令で終わるのは、とてもまずいと私は思った。ガザで行われている虐殺は、イスラエルの正義であって、イスラエルにとってはそれが同胞への愛であると宗教的にもそう考えていると思っていたからだ。争えてもいなくて一方的なイスラエルの「愛と正義」によって虐殺が行われていると私は考えている。だから「愛しなさい」という指示や命令は、この状況を好転さるというよりも、火に油を注ぐと考える方がいいのではないか。そして、米軍基地や自衛隊基地によって占領され、沖縄を追い込んでいる私たちの「愛と正義」について今考え直さなくてはならないだろう。戦争になるということは、国家が一体となることで、そのために殺される前に殺すことが正義となり、国のために戦う兵隊へ行くことが愛となる。戦場では敵を助けることは間違ったことであり、敵を愛することはできない。いじめの一つも止められない日本の社会で生きた私たちに戦場で戦況を覆す力が一人一人にあるとは思えない。だから今、引きこもることについて考えたい。「ひきこもり」にとって働くことが正しいことなのか?「ひきこもり」を見守ることが愛なのか?私はそのように通用してきたこの社会の愛と正義を否定する。
2023年12月16日 髙橋淳敏
参考文献
「母よ!殺すな」横塚晃一
「われらは愛と正義を否定する」横田弘 立岩真也 臼井正樹
11月18日(土)の定例会、参加は13名でした。(内7名の方がご家族)
冒頭はニュースタート関西がどう始まったかなどについてと、先月の文章の「やめる」ことについて。1人の人が引きこもるということは大変なことでもあり、その引きこもることを継続するために支えていることが何かあるはずだ。例えば「家がある」「食べるものがある」「子ども部屋がある」などをずっと続けられている力が日々はたらいている。子が引きこもると、どうにかしなくてはならない、何かしなくてはならないと周りも本人も考えるが、そうではなくて「やめる」こと。例えば「ご飯をつくること」をやめる。」そうすると問題が生じる。その問題が大事である。例会に来られる親御さんに、困っていることは何か問題だと思っていることは何かと聞くことがよくあるが、「私たちが死んだらどうなるのか」という言葉。これは今現在の問題ではない。子が親離れしないのであれば、親が子離れしなくてはならない。「子が引きこもっていること」と「親が子離れしない」ことは同じで、まだそこに問題はない。親が子離れして初めて問題が出てくる。そしてその問題に対して動き出すことができるだろう。
皆様の話からは。親が思う自立とは、経済的に一人で生きていけること。親がこうなるものだろうと思い込んでいる人生のレール(大学卒業→就職→結婚などで親から離れて暮らすなど)から子が外れてしまった時それを押しつけ続けていては子はいつまでも動けないのではないか。子は子の人生がありその生き方、道はそれぞれなのだと、わかったようなふりをして口では自分の好きなように生きなさいと言ったところで、身体全部で納得できていなければ子には伝わらないだろう。変えようと思っても親の価値観がそんなすぐに変わるものではない。まずは「子どものために生きている」をやめて、自分のために生きようとすること。子には簡単に聞いてきたが「何をしたいか」なんてなかなかわからないものだ。いろんな価値観の人と出会ったり話したりしながらわかってくるのかもしれない。(くみこ)