NPO法人 ニュースタート事務局関西

「能登大地震エバキュエーション」髙橋淳敏

By , 2024年5月18日 5:00 PM

能登大地震エバキュエーション
 地震など壊滅的な被害があった後に、「復興」という言葉が使われはじめたのは関東大震災らしい。30年前に被災した阪神淡路大震災で、すぐにはライフラインなど「復旧」と語られていたが、それまでは聞き慣れなかった「復興」と、いつからか叫ばれたのを私は覚えている。当時の神戸新聞などを見ると、建物など広範囲で倒壊被害にあった東灘区で、地震からわずか一か月、行政による区画整理事業計画が出され、それに対して住民が反対署名を提出した「あまりにも早い」という表題の記事で、それも震災後2カ月も経たない内に掲載されていた。住民が自ら立ち上がろうとする矢先に、行政から先の計画が出されたので、「あまりにも早い」ということだが、それで3万近くの反対署名を集めた被災者側住民の動きもまた早い。
このような「復興」への早さは、神戸という比較的都市であって隣りが被害の少ない大阪である地域性も多少関係はしているが、当時のバブル経済崩壊直後のまだ成長神話を引きずっていたムードに支配されていると考える方がいい。震災に乗じて失われたものを取り戻す機会、復旧ではなく復興、要するに従来の発展の延長線上にある「新たな開発」としてしまえば、更地に事業が立ち上がり、そこに前以上の経済、金が生まれる。被災して協力し合っている住民に対して水を差すようにして介入し、行政が勝手な開発計画を立て住民を決定的に分断させ、覚醒した民の力を遮る。阪神大震災は震災数カ月では、そのような対立が多発した。半壊などの家の解体はできていないところも多々あっただろうが、見る影もなく瓦礫になった家の撤去は、2カ月も経てば大方終わっていた。そのほとんど多くはボランティア元年とも言われた、相互扶助や民の力によるものだったと思う。その民の力に押されるようにして、行政が邪魔をしたり、後手に回るといった様子であった。それでも当時は、バブルもはじけて先行きが見えず、景気が悪いと言われていた時代であった。
一方、今回の能登は、地震から4カ月以上経ったが、たいぶ状況は違っている。家の中を捜索するためにか、瓦礫の山と化した家の撤去すら生々しく手付かずである。数日前に起きた地震かと見紛うばかり、行き交う道路に瓦礫がはみ出している場所さえある。ぐちゃぐちゃになった家を前に、復興もなければ、心のケアもない。誰もそれを移動させる気もなければ、予定も立っていない。当然、瓦礫の下にある水道管も復旧できない。能登では、「復興」が進んでいるなんて言わないで欲しいという被災者は多い。「復旧」すらできていなければ、その目途も立っていない。いや、もうここには戻ってこない人も多いのではないか。2次避難先では、故郷を捨てるべきかどうかの選択が迫られている。地理的に能登だからという人もあるが、ボランティアの数も熊本地震の時より5分の1か10分の1以下という話しもあって、やはり地域性よりも今の日本の経済状況や人口減少など不況以上に衰退している時代性が大きく関係している。「公費解体」という言葉を今回はよく聞く。東日本大震災のように家が流されるのでもなく、その場で瓦礫化しても所有物として考え一軒一軒の名義などを確認をして、ただでさえ少ない職員が何千もの家の解体の申請手続きを行っている。場合によっては家を解体するのに、一年以上かかりそうだ。1人の大人が手作業でやったとしても、それほどの時間はかからない。
 財政や経済など考えても国家や政府は、その力を弱めている。だがそれで住民や被災者や支援者の力が弱くなることとは、本来はイコールではない。政府は自らの力が弱まることで、民を統治できないことを恐れ、例えば今度の災害時の地方自治法を変えるなど、相対的に民の力を弱めることによって、衰退期に混乱する統治の優位性を保とうとしている。増税はその最たる手法である。地方自治体は自らの権限を住民のために使うのではなく、政府に託してしまうような改悪案である。私たちが政府や国家への依存度を強めれば、政府と同じようにして住民の力は弱まり、国家が衰退していくことと住民のそれはイコールとなる。それが失われた30年と言われた間にずっと手付かずで起きていたことだった。経済成長時代、民の力によって強くなった国が、今度はその力でもって民を弱体化させる。栄枯盛衰とはそういうことだったのだ。私たちは今は弱くとも、人が少なくなっていっても、ここではない違った場所でちょっとは立ち上がらなくてはならない。国家や東京資本などの中央集権システムに依存し続けていた私たちが、今さら他人事のように経済成長や人口増加に寄与したり期待することもできない。ましてやそんなことを待っていて能登がどうなることではない。能登が再び興るとは、「復興」とは、今どういうことなのか。
 今回、炊き出しのボランティアで主に珠洲市に入ってみた。4カ月も経てば避難所にいる人は、避難生活の玄人になっていて、4か月後に行った私なんかは避難生活の素人な訳で、こちらが助けてもらっているような場面の方が多かった。珠洲市でもスーパーが営業し始めてはいたが、買い物一つにしても、どうすればいいかが悩ましい。買い物をして、現地の産業を応援した方がいいとの声もある。一方で、まだ営業時間も短く、品ぞろえも偏りがあって、ここで購入することによって、現地で欲しい人の所に届かないのではないかという懸念はぬぐえない。一体何をしに行っているのか。同じ石川県でも、比較的被害の少なかった加賀地区は旅行キャンペーンなどやって、従来からある復興スタイルでやっているが、能登とはかなりの温度差を感じる。加賀地区が潤えば、本当に能登が復興していくことになるのだろうか?日本における東京のように、金沢に人や金が集まってしまうだけなのではないか。大阪から金沢まで車で3時間、金沢から能登まで車で3時間。金沢と能登は思った以上に離れている。一方で、それも珠洲市で比較的新しく若い住民で被災者でもある人たちが、自分の家を解放してボランティアを受け入れていて、「支援するとか支援されるとか面倒だ」ということを言っていた。引きこもり問題をめぐる社会状況とか、私たちが普段感じている問題意識と似たところあると思って、興味深かった。特に行政は、支援する側と支援される側を分ける。それは引きこもり問題も同じで、私たちはそこに問題の行き詰まりを常々感じている。珠洲市でも支援する側とされる側として分けることに意味がないと考えている被災者がいたことに希望を感じた。そう、そんな立場にこだわっている場合ではない。私たちの暮らしがもうすでに、瓦解し始めている。共に生きていくしかない。
 何かが始まっている。それも、良いこととはされない何か、もうすでに起こっている何か。阪神大震災後も、東日本大震災の後も、熊本大地震の後よりも明瞭になりつつある。気候変動のように地球時間を必要とする、短い人間社会にとっては不可逆的ともいえる地殻変動。コロナ感染症によるパンデミック、中国資本主義経済成長の終了、ロシアの反乱と離脱、イスラエルによる出口のないジェノサイド、アメリカ・ヨーロッパ若年層の反発、今年の最後には帝国アメリカの大統領選が控えている。足元は、30年も失われ続けたあげく、円の価値は下がり、生活は以前にもまして目減りし続けている。日本全体が限界集落的になりつつあり、そこから抜け出る「ノアの箱舟」以外の見立てを、中央はもっていない。国家は棄民政策以外は無策なのである。今回の能登地震後の能登に対する日本国家や自治体による放置は、当然のこととしてある。過疎化が進んでいた地域の、震災後加速度を増した人の流出は、起こりえるはずの相互扶助をできなくもしている。丸4カ月が過ぎ、現地はもう誰も助けてはくれない、分かってもらえない説明できないという諦めにも似た弛緩と、それでもやっていかなくてはならない長く細い緊張を、私たちの話しを聴いてくれる姿勢の中に見た。ボランティアで入るにも継続することが必要になる。住民でもボランティアでも、ここでやっていこうという人が居なければ、モチベーションは維持できなくて、人が減るだけで悪循環である。能登で起きていることは、対岸の火事ではない。私たちは今後、災害なんかに関わらず、定住したり貯蓄したり所有したりすることが困難な時代に突入していく。能登は日本の地方を先行している。エバキュエーション、撤退、退避、避難。
2024年5月18日 髙橋淳敏

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