集団的トラウマ
 以前ここにも報告したが、今年の正月に地震で被災した能登地域に、最近何度か行っている。寝泊りする場所も毎回同じ公民館で、前回で4度になるので、通っている感じがある。去年一緒に周年祭イベントをした、子どもの貧困問題などに取り組んでいるCPAOが、3月から2週に一度という頻度で能登へ通い詰めていて、その炊き出しや子ども支援に便乗しているので、珠洲市には顔見知りが増え、行けば会える人たちが何人もいる。その人たちに会いに行くのもある。9月には豪雨による被害が重なって、能登にとっては踏んだり蹴ったりの状況になった。あまり報道もされないが、外浦と言われる輪島市と珠洲市を結ぶ道路は、地震後もまだ開通の目途もたっていない。その奥にあるいくつかの塩田は、困難な中で再開し始めた時に、今回また豪雨によって土砂が流れてくる被害を受けた。外浦は、地震で地表が隆起した箇所が多くみられ、前までは海面下に隠れていたごつごつとした岩が、広く無数に表れていた。そこへ、豪雨による土砂が覆いかぶさり、新たな海岸が生まれ、海岸線が後退する。元がどんなところかも分からない、地球規模の変動である。私は30年前に阪神淡路大震災を経験したが、その時は自然に対した人工物や文明の脆弱さを思い知ることが多かった。二階建ての家の一階部分がつぶれたり、高速道路とかビルなどの巨大な人工物が目の前で倒れているとか、木造家屋が密集した場所で火災が起こって焼け野原になり、人工島や埋め立てた海岸が液状化するなど。今回の能登大地震は、海岸線の自然後退もさることながら、山が大きく削れている箇所が多く見られたり、一見普通に立っている家も地面がいたるところで隆起して傾いていたりと、地殻の変化や自然の脅威を直接見ることが多かった。なんの映像であったか忘れたが、豪雨で家に入ってきた泥をくみ上げる人が、マイクを向けられて「自然には適わない」と二度の被災後につぶやいた一言が、全てを物語っているのかもしれない。
 阪神淡路大震災は、ボランティア元年といわれたが、そこでまた言われたのがPTSDで、「心のケア」などの言葉が流行した。PTSDは、元々はベトナム戦争のアメリカの帰還兵の半数くらいが患ったという心的外傷後ストレス、個人の精神障害として定義されたトラウマ概念である。日本では阪神淡路大震災後に、多くの人に知られることになる。例えば、地震で被災した子どもの描く絵が暗かったり、おどろおどろしかったりと、その前後では表現が大きく違うことがあって、普段は抑圧されて見えなくても、被災した出来事で内面は深く傷ついた。それによる身体症状や心身症なども現れた。それで、避難所にカウンセラーなどが派遣されたりもしたのだった。能登では、地震から4カ月ほど経った避難所で、私は子どもたちが避難ごっこをしているのを実際に見た。子どもが親を演じ、ぬいぐるみを子どもに見立て、家の中で避難する場面や役所に手続きに行く場面などが演じられていた。それを見て、なるほどそういうことがあったのかと勉強になったが、それもトラウマによるものなのかもしれないし、治癒のための必要な遊びなのかもしれないとも思った。だが一方で、この経験が個人化され、個人が治癒して元の社会に戻っていくというのは、変な話しだと考えていた。能登ではカウンセラーが派遣されているような話は聞かない。復旧もままならず、そんな余裕もないのが本音だろうが、このトラウマは個別の経験ではなく集団で経験された出来事によるものである。なので、個人がそれぞれに元の社会に適応するために治癒されるのではなく、この出来事を経験した人たちが、それを乗り越える必要がある。そして、被災した経験を集団で乗り越えられた社会というのは、元あった社会とは違っているはずである。それが例えば「復旧」ではなく、「復興」と言う言葉になっていた。元通りではなく、この出来事を乗り越えた社会を創造することが課題になる。30年前の社会は今よりも強固なものだったので、乗り越えたというよりも元あった社会に吸収されるようにして、更地化した神戸は開発された。でも能登はそうはいかない、人口が指数関数的に減衰した社会は、能登を抱えることができない。逆説的に、弱体化した社会を乗り越えるヒントは、震災後の能登にある。
 引きこもるという行為も、集団的トラウマによるものではないかと私は考えている。例えば、「ひきこもり」や「不登校」という言葉が流行る直前は、不良や非行や校内暴力などが主なる社会問題であった。外の社会や大人や学校や先生など権力に向けられていた暴力が、学校内や小さなコミュニティー内の横の関係に発生するようになり、弱い者同士がたたき合う「いじめ」などが社会問題化する。子どもたちは、その時代における社会から受けるストレスを集団的に持っている。それが外に発散されず、より内に鬱屈し始めたのが、この時代である。登校拒否が不登校と言い改められたり、自殺や自傷行為、引きこもりなどが問題行動だとして表出することになる。30年も前のことになるが、一体この変化がなんであったのかが、個別ではない引きこもり問題を考えるヒントになる。暴力は上から下にか、あるいは下から上にあり、多くの人が目撃する中で行われた分かりやすいものが、友達同士の横のラフな関係で起き、クラスなど小さなコミュニティ内や密室など、陰湿で分かりにくいものになっていく。その要因として考えられるのが、生徒同士が結託したり協力するのではなく、競争や個別に分断をさせるような受験教育システムがあげられる。この時期、「受験戦争」という言葉が流行し、のちに受験勉強は、現在まで先鋭化され、定着することになる。ひきこもる大きな要因の一つは、この学校の受験勉強教育システムの不信によって、学校内で「いじめ」など加害被害傍観する集団的な経験が、多くの子どもの心的外傷になっているのではないかと考える。そのストレスを、良い成績を取るなどで発散し克服した気にはなっても、結局は外傷としては治癒しておらず、引きこもるなどの行為として後にも表れるのではないだろうか。あくまでも仮説のような話しではあるが、受験勉強やいじめなどがパッケージ化された学校社会は、例え傍観者的であったとしても、そこに所属していることによる心的外傷と、のちに現れるストレスも相当であると考える。そして、この集団的に経験された心的外傷が治癒されるのは、個人が社会に適応されることによるのではない。心的外傷によるストレスをできるだけ多くの人が分かち合い、それを集団で乗り越えることで、今までとは違うあらたな社会になっていくことでしか、PTSDが克服されることはない。この集団的トラウマをない物として社会に出た人は、今の社会を変える力はないが、自分だけではなく世代的に乗り越えようと思えるのなら、社会を変える力を持っていると、30年もの幅があり200万人とも言われている「ひきこもり」に期待している。
2024年10月19日 髙橋淳敏
				
		 
	
		 
	
		
		
				
		
		 
		
		
				
	
	
			
		
		
		
			
	
	
				 10月13日(日)鍋の会を開催しました。5名参加でした。この日はなんと「ブリしゃぶ」なんてどうですかとブリを買ってきてくれた人がいて、今まで鍋の会をやってきて初めてのブリしゃぶになりました。昆布でだしを取っただけでしたが、ポン酢でさっぱりととてもおいしかったです。魚と野菜のだしの出た美味しい汁でもちろんおじやもしました!この日の話は一人暮らしについて。私は一人暮らしをしたことがないので来ているみんなの1人暮らしの話を聞きながら話をしました。「お腹が減ったらどうにかして何かを食べる」という言葉が印象的でした。実家にいるとおなかが空いてどうしようという状況になることはまずないので、やはり親から離れて暮らすということは自分で考えて動くということになるんだなと実感しました。10月の半ばですがまだ暑い日でした。来月の鍋会はしみじみとあったかい鍋が嬉しい季節になっていたらと思います。(くみこ)
				
		 
	
		 
	
		
		
				
		
		 
		
		
				
	
	
			
		
		
		
			
	
	
				9月21日(土)11名参加(内家族の方は6名)でした。5月に能登に行った時に骨折してその後3,4カ月ぶりに先週能登に行っていた。外から入っていくと3,4カ月前の状況とあまり変わらない景色に気持ちは落ち込んでしまうが、中で暮らしている人たちはそうではなかった。子育て世代のある母親に話を聞く機会があった。昨日までできなかったことができるようになったり、昨日まであった瓦礫が無くなっていたり、そこで暮らしていると少しずつの変化を感じることができて希望を感じている。自分たちのような子育て世代は半分くらいが金沢に避難して暮らしているが、そういう人たちの方がつらそう。全然変わらない状況にいつ戻れるかもわからない中で希望を感じられずこれからどうしていけばよいか思い悩んでいるようだと。
引きこもりの状態は外から見たらいつまでも変化のない動かない状態。その渦中にいる本人は日々色んなことを考え変化はしている。それは明るく元気なわけではないだろうが、家を開いて家族が変わっていけるなら少しずつ変わっていく。日常の変化も大事だろう。
 皆様の話からは、大学生の不登校について。望んでた学校に入れなかった。大学生活に馴染めなかった。大学に気持ちが向かず行けなくなる。留年すると周りの人たちと学年が変わっていく。本人に行きたい気持ちがないのなら、せめて親や周りはやめたらと言う。そこから本人がどうするか考える。何の肩書もなくなるということは勇気がいることだけど、そこからしか「何をして生きていこう」という問題に向き合えない。
学校や仕事に行けなくなって動けなくなってしまう人というのは正直で嘘をつけない人が多い。なので親や本人はコミュニケーション能力がないと思っているかもしれないが実際はとても分かりやすく会話がしやすいと感じる。でも建前ばかり気にするような、本音は言わないような今の社会では生きにくいだろう。
親と一緒に暮らしている中で自分のことを自分でするというのは難しい。親が子どものことを絶対にできないという状況になかなかならないから。親が「私が」やりたいこと(どうしても子どものためにと考えてしまい純粋に自分が何がしたいかなんてわかりにくい)をやろうとしたときに家のことでできなくなることがあるなら、そこで初めて家族で話し合いができるのかもしれない。(くみこ)
				
		 
	
		 
	
		
		
				
		
		 
		
		
				
	
	
			
		
		
		
			
	
	
				10月の定例会◆(不登校・引きこもり・ニートを考える会)
10月19日(土)14時から (307回定例会)
場所:クロスパル高槻 
5階 視聴覚室※いつもと場所が違います。ご注意ください。
○この日は、高校教員をされている末岡さんが話題提供者です。学校化する社会から皆さんと共に引きこもりと不登校について考えていきたいです。
 
当事者・保護者・支援者問わない相談、交流、学びの場です。
参加希望の方は事務局までお申込みください。
詳細はこちら
※参加者は中部から西日本全域にわたります。遠方の方もご遠慮なく。
 
				
		 
	
		 
	
		
		
				
		
		 
		
		
				
	
	
			
		
		
		
			
	
	
				傷の中に入っていく
 もう9月も終わりに近づいているが、大阪は連日35度を超えている。夜も暑い。異常気象と言われるのは、日本だけでもないらしい。東欧や東アジアの水害も報道されていた。毎年のように異常気象なのだから、何が正常なのかもわからないが、地球全体が異常な状態なのだろう。私たち人間が気候の変化に神経質になっているのかもしれないが、神経質にさせられるほどには、この変化に警戒すべき根拠はあるようだ。気候は毎年のように少しずつ変わってきている。ここ50年100年のスパンで地球上を見ると、昔と同じ場所を探すことの方が困難であろう。でもまあ地球規模では何億年かければ変化はするものだ。ただ、どうも人間が住み始めてから、特に近代と呼ばれるようになってからの100年200年ほどの変化の加速度的なものは、異常と考えるのが良さそうだ。私たちが毎年のように異常だと感じているのは、去年からの変化の加減(+-)を言っているのではなく、ここ最近の変化の加速(×÷)について感じているのだろう。もしかしたら温暖化などの変化は、長いスパンで地球からすれば正常なのかもしれない。何億年単位で見ると人類はいずれ滅亡する運命にあるのかもしれない。だが、今の気候の変化の加速度的な具合は、人間にとっても地球にとっても異常なのだと思う。近代になって人類は地球の癌のようになったのかもしれない。まだ世界の人口は増えてはいるようだが、地球は年々人類が住みにくい方向へと変化しているみたいだ。そして、住みにくくなる変化へと加速させているのは、皮肉にも近代的な人間の暮らしや経済といっていいだろう。自らで自らの首を絞めている。とはいえ、人間が地球を滅ぼすことはないだろ。未だ地球にとって人類は微々たる存在である。地球が人間にとって住めない場所になっていくことで、ノアの箱舟を作ろうとしたり、火星に脱出するなど考えている輩もいるが、果たしてそんなことでいいのだろうか?
 今年に入って、珠洲市などの奥能登に何度か行く機会があった。元旦の能登半島地震がきっかけだ。外浦を見ると分かりやすいが、地表が全体的に隆起し、いたるところで海岸線が大きく後退している。大部分の海底がせりあがって陸というか岩場になっている。地球から見れば大したことではないが、人間にとっては住めなくなるほどの大きな変化である。金沢から車で三時間ほどかかる奥能登は、昔から北前船などの海路で発展した経緯がある。半島とはよく言ったもので、半分は島みたいなものだ。船や漁港が使えなくなるだけでなく、漁場が変わり、能登の生業の一つの漁業にも大きな打撃を与えた。そんな場所にピンポイントで原発を建てる計画があったのだから、改めて国家政府の政策の浅はかさに呆れるしかない。大きく黒い能登瓦でつぶされている家が、車道沿いに延々と続く、輪島の朝市周辺は焼け野原になっている。隆起した地表や津波や家の倒壊は、今回の能登の地震の被害の中でも深刻なものだが、もっと深刻なのは人災ともいえる被害だ。様子が違うのは被害の風景に時間の感覚が紛れ込んでいることだ。つぶれた家は時間をかけて朽ちていて、何度もひっくり返された家は跡形もなく、無残な瓦礫は行き場を失い、そこかしこに山積みになっている。焼け跡からは草が生え、露わになった鉄筋は錆びて赤くなり、炭は色を失っていた。復旧や復興にあるはずの音がなく、とてもしずかで見ている景色とのコントラストが異様だった。この被災地はすでに半年以上が経過し、被害は人の手が入らないことによって風化している。
 珠洲市の仮設住宅に住み、私たちがボランティアの拠点にしている公民館に来てくれた子育てをしているお母さんたちに興味深い話しを聞いた。「知人や親戚には金沢などに避難している人が多くいるが、彼らは変化のない状況に絶望しているしとても疲れていて暗いと、能登に残った私たちの方が日々のちょっとした変化を見れるので元気そうだ」と。私も外から来ているので、何度来ても変わらない町の光景に暗い気分になっていたが、その話を聞いて少し安心した。それ以上に、避難に留まることの意義を教えてもらった気がする。もちろん、外部の人間が、中の人に避難に留まれと言うのは暴力にも近いことなのだが、避難に留まることによって、日々の変化や関係作りに向き合い、外から見られるような復興や復旧ではなく、新たな生活や身体が回復していくことはあると思う。必ずしも悪いとは言えないが、金沢で新しい生活を始めたことによって、今回の地震で向き合わざるを得ないことを後回しにしてしまうことは仕方がないが、その生活にはあまり希望がないのかもしれない。新天地で生きがいのようなものが見つかればいいが、ただ遠くの故郷を心配し、とってつけたような新しい生活をしなければならないのであったら、回復とは程遠いことなのかもしれない。
 神経症と言われたり、神経質な気質が日常生活の障害になっていて、それを克服するやり方として、薬などでこだわりを解くのは一般的な治療法ではあるようだが、神経症の中に入っていく方法もあるらしい。地震などの被害でえた心的外傷を、遠く離れた地で癒すのではなく、新たな被害が及ばないくらいは避難はしても、被災した近くでこそ癒えていくことはある。私は常々、引きこもるという行為はそれに近いものであるように思っていた。学校や職場などで得た心的外傷(いじめなど直接的な被害だけに及ばない、傍観者であったという間接的被害加害にも及ぶ)を、その経験と共にあった家や部屋にとどまって癒そうとする。家族など周りの人は、家でなくてどこか遠くへ行った方が、その傷は癒えるのではないかと家から出ることを勧めるが、特に本人はそのような気にはなれない。被災したお母さん方が教えてくれたのは、その時に傷が癒えるのに大事なのは、日々同じ日が繰り返されるのではなく、外からは見えないくらいの日々の変化である。公費解体が5%から10%になったというのではなく、昨日あった瓦礫が少しなくなっているとか、昨日までは食べることができなかったものが食べれたとか、あるいは少し後退したとか。そういった小さな変化は、神経症の中に入ったり、避難生活の中に留まることでしか実感がしにくい。冒頭、私たち人間が気候の変化に神経質になりすぎているのかもしれないと言ったが、火星などに移住することを考えたり、ノアの箱舟で未来に何かを残そうと考えたりするのではなく、私たちはこの気候の変化の中にとどまることにこそ、希望を見ることができると考えている。引きこもる状況にあることは、そこに留まることではあるが、大事なのは小さくとも変わっている日々であって、その変化は自分の内側から起こせるものではなく、危機の時に外からもたらされることがきっかけになる。
2024年9月21日 髙橋淳敏