「新貧乏生活」髙橋淳敏
新貧乏生活
蛇口をひねると勢いよく水が出る。ガスも電気も、家の中まで高圧をかけられ、栓やブレーカーによって常に制止されている。近年は、通信会社が放出している電波から情報に至るまで、押し売りされているものを、端末や指先で制しなければならない。車や電車も、乗っている人は振り回されないように身を固くし、運転する人は乗り物を常に制御する働きをする。十年前、人に建ててもらう金がなかったので、自分たちで家を造った時、インパクトドライバーと丸ノコという道具を使った。どちらも金づちとノコギリに代用される電化製品である。便利で作業効率も良かったが、電動器具を制するために酷使された身体の一部は壊された。金づちで釘を打つ自然に近い動作と、電気モーターによって暴れる本体を手先で制御する動作では、やっていることが違う。暴発するくらいの圧で押し売りされているインフラ、情報、乗り物、道具、食料品などを日常的に制し続ける身体は強張り、多くは無自覚に疲労している。
朝起きて近くの川へ、一日に必要な水を汲みに行く。川は氾濫するので、不便でも少し離れた山間に居を構まえ、リバーサイドには住まない。歩いて15分あるだろうか、日照りが続いたので、畑に水やりをしながら、川までの道を何往復かする。このような能動的な身体が、人の暮らしを作ってきた。ちょうど30年前に阪神淡路大震災によって被災した私は、インフラが使用できなくなった時に、今までの暮らしが何者かに奪われていたことを知った。栓をひねれば水が出ることを、ありがたく思ったのではない。水を得る行為が、震災前までの生活から省かれていた。暮らしを形作っている様々な行為が、現代や都市部の生活で失われていたことに気がついた。地震こそが恵みであり、被災して知る暮らしがあった。「失われた30年」は、政治家や既得権益者による嘘である。少なくとも震災30年以上前、「失なわれていない」とする高度経済成長期やバブル期、人々の暮らしが最も失われていた時代といって過言ではない。
いつからだろうか。150年以上も前、欧米から開国を迫られ、それぞれのお国を捨てたことで、日本は今の国家として統一された。国民などと煽てられ、(被)差別的で(被)植民地的な意識に人々が染まっていく中、近代国家が形作られていった。戦後はさらなる加速をして、田舎と言われて国家からは捨て去られ、東京に一極集中した地域性のない都市部での核家族や単身者の生活が中心となる。国家や近代化は、多くの人間の生存を可能にしただけで、人々の暮らしを大事にしなかった。人の暮らしは、解放された身体によって形作ることのできる大事である。常に制する方へと働く現代の生活で、人の暮らしを見ることは難しい。昨年の元旦に地震で被災し、国から見棄てられた奥能登地区へ、避難生活をしている方たちの暮らしを何度も見に行った。昨年の暮れには大阪の釜ヶ崎で、強制執行によってセンター周辺の路上生活者が、その暮らしを奪われた。それでも半数近くの釜ヶ崎の野宿者は「今の生活を変えたくない」と言っている。福祉施設に収容することは支援ではない。リバーサイドのタワマン生活よりも、野宿者の「その日暮らし」の方が大切なのだ。
セルフレジに並んでいてふと思う。前の人が商品のバーコードを読み取って買い物袋に入れている行為は、去年までは店員の労働であった。それを今は客がやっていて、自らが行った行為の後、機械に請求されて金を払う。そのために順番を待って並んでいるが、ふと我に返り今私が何をしているのか分からなくなる。並んでいる列から離れ商品を元の位置に戻し、店を出たことが何度かある。セルフレジを導入は、商品を安くしたり、労働者や生産者に還元するため何かもしれないが、店側は人件費のコストカットなどを理由としているので、そのどれでもない。もっと以前は、商品を袋詰めまでやってくれる店員もあったり、バーコードがないときは値札を見て、レジ打ちする時もあった。長期的に見て、商品の値段が下がっているのでもない。客と言われる非労働者がレジ打ち行為をすることによって浮いたはずの利ざやは、どこに流れるだろうか。訪れた町でお腹が減ったけど、めぼしい外食チェーン店がないのでコンビニに入ってみる。入った途端に、後悔することもあるが、背に腹は代えられないと思って食品が陳列してある棚まで行く。どれも食べ物であることは分かるが、選ぶ気になれない。手に取ろうとして、食べることや味を想像しては、やめることを繰り返す。そうしているうちにどうでもよくなり、腹が減っていることを諦めて、店を出る。そういうことも何度もある。
急激な人口減少時代に突入している。当然の結果として、経済は縮小し、国力は弱まる。だから、誰しもが少子化対策が必要だといって、政治家なんかも神経質に訴えている。だが、少子化対策は多少の子育て支援にはなっているかもしれないが、本来の目的には達していない。歴史的に見て、栄華を誇った国は、必ず衰退する。日本は30年以上前から衰退期に入っていて、今がその本番といった時代である。ここ何十年かあるいは100年か200年か人口減少に歯止めは効かない。過去100年で子どもが増えたのは、1945年以降の第一次ベビーブームと1970年代の第二次ベビーブームである。第二次ベビーブームは第一次ベビーブームがあったからの結果で一次以上の伸びはない。第一次ベビーブームは子育て支援が充足していたから、たくさんの子どもが産まれたのではない。戦争で負けて、貧しい中、人の暮らしの希望として子どもは産まれた。人口減少、経済縮小、国力の弱体化、それは歴史的に見ても自然なことであるし、大変結構なことではないか。私たち一人一人が使える土地や資源は増え、国に頼ることなく自分たちで助け合いながら暮らしていける。素晴らしい時代が到来している。さらには私たち一人一人が使える技術は、数十年前とくらべても、手に入れやすくなっている。それにだ、人口増加や経済成長などの栄華にしがみつくのではなく、貧しいなどといって見ぬふりをしている未来に開き直ることの方が、本来の少子化対策にもなるだろう。
2025年1月18日 髙橋淳敏