NPO法人 ニュースタート事務局関西

「自立は直立することではない」髙橋淳敏

By , 2024年1月21日 10:00 AM

自立は直立することではない

 去年末から腰痛が再発した。前回ぎっくり腰になったのは20代後半で、腰痛はその時が初めてだった。以来この20年、寒い季節になると腰痛持ちであることを自覚させられはしても、年々その意識は薄らいでいた。ここ数年は、もう直ったのではないかと忘れているほどだったが、そのところへきて、長い波長で腰痛のピークは訪れた。一度悪化すると、あまり動くことも出来なければ、どうすればましになるのかを考える日々であった。体勢を変えたり、動ける範囲で身体を動かしてみたり、風呂に入って温めてみたり、一挙手一投足を気にせざるを得なかった。調べてみれば、日本でも少なくとも1000万人以上の人に腰痛の症状があって、9割以上の人が人生の中で腰痛になるという。肩こりなど含め、自覚症状としてはトップに挙げられるが、腰痛の8割以上の原因は不明で、それだからか1週間から1カ月もすれば、だいたいは自然に治るという。ほとんどの人が経験するミステリアスな身体異常である。人間以外の動物には腰痛がないことから、その原因は、人だけが二足歩行するからとも考えられている。腰痛の原因が直立姿勢にあるならば、直立をやめるわけでもないのに、なぜ腰痛は自然に治るのか。椅子に座っていても腰に負担はかかるし、今回は特に朝起きるときに痛みが一番ひどくなったので、直立したり座っているよりはましでも、寝ているだけも腰に良いとは思えない。それなら一体なぜ腰痛はなくなっていくのだろうか、また今回も謎は深まるばかりであった。長い間同じ姿勢でいることは良くないようである。動くこと。その腰痛のピークにあった年始に、まだハイハイでしか移動できない赤ちゃんを連れて友達が家にやってきた。腰痛では赤ちゃんを抱っこをするのもままならないし、腰痛の始まりが自立姿勢だと考えていたところに、つかまり立ちを覚えたばかりの赤ん坊の成長をただ喜んでもあげられない。見ているだけでも楽しかったが、年始から、心身ともに困ったのだった。
 私たちは、常々主張しているように「ひきこもり」問題が生じているのは、社会に原因があると考えている。個人の能力や努力や病気や障害に「ひきこもり」の原因はない。今はあまり聞かれなくなったが、子どもが社会へと出て、自立をする前に「モラトリアム」期間があった。「社会人」というよく分からないアイデンティティを得るために、子どもたちはその能力を発揮させ、努力させられる。「社会人」といっても様々ではあるが、そのメインストリームは高校までは受験勉強などして大学へ行き、企業に就職して会社員になることであった。今でもリクルートスーツのような服を着て、就職活動をしている若い人を大阪駅などに行くと見ることはできる。リクルートスーツを着た人は求職者で、モラトリアムとは言わないが、社会人になろうとする前の猶予期間をモラトリアムと呼んでいた。企業に適応するかどうか、できるか否かを悶々と考えさせられるような悩ましい期間である。30年前は就職氷河期と言われていた。有効求人倍率が軒並み1.0を割り、誰もが社会人になれるわけではない競争社会が到来していた。勝つことが当たり前で、負けられない競争を強いられた。30社受けるような人もざらにいた。勝ち組、負け組などの言葉も流行した。要するには社会人になって努力するのではなくて、全ての子どもたちが大人になるために努力することが自己責任とも言われた。その社会のレールに乗りさえすれば、大人にさえなれば、自分で考えて行動することは無駄なことになった。今でもこの影響は色濃く残り、後戻りできない感もあるが、いつまで続くのか。私はこのような社会構造は異様であると考えている。そう長くは続けられないが、本末転倒した堕落社会として、歴史的に振り返るそう遠くない未来があると思っている。「ひきこもり」と名指されている人が堕落しているのではない。「ひきこもり」と名指す社会が堕落しているのだ。形骸化した企業や会社に適応することを前提としなければ、社会という壁の前で立ち尽くす時間はモラトリアムでもなく、私たちが自分たちの生き方を実現していくための、もっと豊かな期間として、その名前も変える必要があるかもしれない。
 ここでさんざん指摘している「ひきこもり」という言葉もそうだが、「自立」という言葉にも本来ニュアンスとしても必要な「動き」が全く含まれていない。子どもたちが大人になるときに問題とされていることは、自立というよりも親や家以外の所属先、企業や会社への「依存」と言った方が当てはまっている。行政などがやっている支援の多くは自立支援などではなく、依存支援である。「依存」というのは悪口で言っているのではなく、自立とはより多くの依存先を見つけることでしかないとも考えるならば、悪いだけではない。ただ、親や行政や支援者はただ一つの依存先を見つけることだけに躍起になっていて、それは間違ったことであると考えている。今でも私は社会的な「自立」が何を意味しているのかは分からないが、これも赤ん坊が自立することの比喩であるのならば、学校や社会の中で育ってきた子どもたちがそのままにしてつかまり立ちすらしないのであれば、その子どもの「自立」は、本人の能力や努力や病気や障害のセイではなく、社会や大人たちの責任なのではないか?直立できる大人たちに育てられた赤ちゃんは、立ち方を教えなくても自立をするようになる。学校で読み書きくらいは教えられた子どもが、その他に特別なことを教えられなくても、自立できるような社会を作るのが大人たち、社会の責任なのではないだろうか。そういう責任を持った人を「社会人」と呼ぶならば、まだこの言葉の意味も分かる。自立するとは、どこかに所属したり、一つのことに過度に依存するように、静止したり固定されているような状況を示す言葉ではないだろう。二足歩行をしている人間にとって、長く座っているのも直立して静止しているのも腰痛の原因にもなると思うので、大人ならば社会人ならば自立している人ならば、早くその場から動いた方が良い。

2024年1月20日 髙橋淳敏
 

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