「やめるだけで訪れるチャンス」髙橋淳敏
「やめるだけで訪れるチャンス」
引きこもることの善悪の話しではない。引きこもること自体は、法を犯すような悪事でもなければ、誰かに褒められることでもない。ここで何が言いたいか結論から言うと、自分があるいは自分の子どもが引きこもっていて、それを解消したいならば、それぞれが正しいと今思ってやっていることをやめればいい。それは、本人にとっても、家族にとっても、支援者にとっても同じことである。引きこもることは生物的にも社会的にも続けていくことは、本来は困難である。引きこもり続けることは、すでにそこに何らかの常態化した力が働き続けなければ生命維持や、正気を保つことも不可能である。ましてや引きこもる生活を1人で維持することは不可能である。1人の人が引きこもるということは、すでに今の今まで、良いことも悪いことも相当なことをやり続けてきいる。2年か3年かあるいは5年か10年か引きこもっていて、あるいはまだ1年にも満たないのか、もう30年にもなるのか、引きこもっていることの何が問題なのか、ちゃんと見極められていないことが多い。そこに問題がないのなら、問題にもならないことは本人だってどうする必要もなければ、親にもどうすることもできない。ましてや、支援者は関わることさえできない。引きこもること自体に問題はない。例え引きこもることが30年続いたとしても、そこに問題がなければ、引きこもる生活のほとんどすべては杞憂に終わる。心配やリスク管理ばかりして、ほとんど何もやらないで多くの時間を過ごすような人は、引きこもっていなくてもたくさん存在している。そんな人たちばかりで構成されている社会と言っても過言ではない。ならば、私たちの人生の大半は、杞憂であったと考えるしかない。
さて、引きこもっていることの問題はどこにあるか。多くの親は子どもが自立しないことが問題と考えている。だが、その親の話しを聞くと、学校に通い大学などを経て就職し数年勤めてあわよくば結婚し家をローンで購入して上手くいけば子どもを産んでとか、自分たちの全てを懸けて追いかけてきたような生き方を「自立」だと考えている。学校、就職、結婚、家、子どものすべてを望む親も少ないが、漠然として「自立」はそのラインに乗っかっている。私の経験上は自立するには料理ができることはかなり大事なことだが、料理ができることを褒めても、料理ができないことを問題とする親には会ったことはない。だが、今に始まったことでもないが、親の望むような「自立」をする人は、「勝ち組」とは言われても、少数派になっている。直接、親に言うことはないだろうが、会社にだけ依存するような親の生活を、「自立」というのか疑問に思っている子たちの声もある。自立しない、自立できないのは引きこもりに限った問題ではない。「自立」は引きこもることに重くのしかかるようにして関係はしているが、「自立」のことを考えても自立できない。自立はしていなくても「ひきこもり」でない人もたくさんいる。物や人に極度な依存傾向にある人や、社会的に排除や隔離された人など、引きこもってはいられない人もたくさんいる。そういう人の方が、むしろ当然に問題を抱えている。さらには、自立をしない子どもに対して、親は私たちが死んだらどうするのかと問題を前倒しにして作ることまでする。親が死んだ後の子の生活が心配で、そこに問題があると考えようとする。仮にそれが問題になっていくと考えるならば、親がまだ健康である間に子と離れて隠れでもして生活するしかない。子が親離れしないのであれば、親が子離れすればいいだけだ。とても簡単な話しなのだが、親はいろいろと理由をつけて子離れをやろうとしない。それでは親が問題と思っている引きこもっている子と同じではないか。要するに、親がいなくなって子が生きられなくなる問題は、親が子と一緒に生活している間は問題にはならない。いま現に問題が起きているのではなく、予防やリスクマネジメントみたいな話しである。
私はここで引きこもることの問題をわざとつくるつもりはない。引きこもっている子も、その親もいま現に困っていることは知っている。私も支援者として関わって、困ることや問題を抱えることは多々ある。だが、問題が現れてそのことと向き合えば、必ず事態はどこかへと進展する。良し悪しではない、問題を一人ではなく共有できれば事態はなにかと動く。そもそもなぜ引きこもれるのかについて、今の生活がどのようにして成り立っているのかを考えてみて欲しい。そこに何が親と子と他人で共有できる問題があるのか。ほとんど多くの場合、引きこもっている人や、その親や、その支援者も引きこもっていること自体を悪いこととして、それ自体を問題として捕え、どうすれば改善できるかをやろうとしている。だが大事なのは、今どうしてどのようにして引きこもっているかである。何か新しい別のことをやるのではなく、今やり続けていることをやめることが大切である。抽象的なことで言うと、将来の心配であったり、親の干渉であったり、先の偏重した「自立」という考え方であったり、ずっと今まで正しいと思ってやってきたことをやめる。具体的に言えば、食事の提供であったり、子ども部屋を作り続けていることであったり、本人を信じて待つことであったり、親として正しいコミュニケーションを取ることをやめる。それら多くの間違った引きこもり支援を今、まさにしている。そういう支援をしているからこそ、引きこもり続けられていることを理解する。では、正しい支援をしなくてはならないか、いや正しいことはしなくていい。ただ間違った支援をやめればいい。まず今までやってきたこと、子のためと思いやってきたことは、親の思い違いであったと伝え、誤りを認める。「あなたを愛していなかったわけではないが、親として未熟であった。あなたのことは可愛いと思い、目に入れても痛くなかったが、自立して家から出て生活するためにはならなかった」そして、子の自立にとって親にできることは何もないことを認める。なので、今まで子のためにと思ってやってきたことはやめる。子に対するお世話もそうだ。親は子に心配をかけないような自らの人生を生きる。お互いその変化には猶予期間が必要だから長くもなく短くもない期限を決める。引きこもり問題はこのようにして共有される。学校へ行くこと、就職すること、結婚すること、世間では良いことであって、なぜか正しいとまで考えられるようなことは、引きこもり問題においては間違えである。学校に行けないのは、学校に行くことを正しいことだと思い込んでいるためである。学校に行くことが間違えで、行かなければならないことでもなければ不登校でもなくなる。不登校であることもやめてしまう。問題はそのようにして表れる。そこで子や親、一人ではなく問題を共有する。不登校であるうちは、無理矢理登校しているうちは、問題を先送りにしているだけである。引きこもり続けられるのも、引きこもることを世間体の悪いものだと思い続けているからである。今やり続けていること、それをただやめればいい。そうすれば危機でもあり、機会は訪れる。
2023年11月18日 髙橋淳敏