「引きこもり解放運動」髙橋淳敏
引きこもり解放運動
引きこもり支援は、社会復帰(就学や就職など)を自己責任としてはいけない。「ひきこもり」という社会問題を個人に押しつけてはいけないと考えている。当人の社会復帰のために、治療や訓練や教育を、個々に施すのではない。ましてや重大なこの社会問題を障害として、狭義の福祉制度へと回収させてはならない。復帰する(変わらなくてはならない)のは社会の方で、「ひきこもり」問題の責任の所在は、今の日本社会にある。もちろん、「復帰」すべき帰るような社会の形が、過去にあったとは考えられないが、引きこもり問題を通じて、今とは違う社会が形成されてもいかなければ、引きこもり問題はいつまでも経っても解消はしない。若い人は今後も社会から隔離され続け、日々更新し変わり続けるはずの社会は、変りもせず衰退の一途をたどっていくことになる。この30年、例えば一人の「ひきこもり」が社会復帰をしたとしても、引きこもり問題は解消するどころか、解決から遠のいていった。「ひきこもり」が社会復帰をすれば、今の社会が強化されることはあっても、引きこもり問題を通じて問われるべき社会の責任は、その度に先送りにされてしまった。私は20年以上にも渡って、そのような場面を見てきたように思う。引きこもっていた人が、学校に行っても、就職をしても、この社会問題は何も変わらない。結果、「ひきこもり」も減らなければ、社会も変わらないかもっと悪くなっていった。引きこもり問題は「ひきこもり」の自己責任ではなく、会ったことがない人を「ひきこもり」と名指す差別的な社会の問題である。差別を受けたある人が私に教えてくれたのは、「差別は差別する側が問題なのであって、差別される側の問題ではない」という極めて単純なことだった。差別を受けた引きこもりは、あなたが問題だと言われるが、いったい何が問題なのかは分からない。学校に行っていないから?仕事をしていないから?いったいそのことの何が問題なのか。学校に行っている人、仕事をしている人の問題はなぜ問われないのか?点数を取るためだけに勉強をしたり、お金を稼ぐためだけに働くことに問題はないのか?差別者は、被差別者のことを理解したり支援したがるが、差別問題がなぜあるのかを知るには、差別をする自分自身を理解をしなければならない。なぜ、私は引きこもる人を「ひきこもり」と名指すのか?「ひきこもり」を個人の責任(病気や障害や怠けや無気力)として定義する社会こそが問題なのだ。20年以上、そのようなことを考えながら、私は引きこもり支援活動をやってきたが、いつも問題を抱えているのは私や社会の側であった。問題を抱えている社会や私たちと、その社会問題を一緒に考えてくれませんか?そうやって私は、彼・彼女らを誘い、問い続けてきた。だから会ってくれるだけでも有難かった。話を聞いてくれるだけでも、手紙を読んでもらえるだけでよかった。点数を取るためだけに勉強をして、人のことを成績により優劣をつけることは問題だし、全てお金でどうにかなったり、お金が何よりも大事であるという考えは、大変に問題含みである。そのような問題含みの社会から、引きこもることの一体何が問題なのだろうか。
問題含みの既存の社会、一人のひきこもりが復帰することで強化される社会、引きこもり問題が醸成された今の社会とは、どんな社会だろうか。以前は校内暴力や不良・非行などと言われ、権力や教師に反抗する子どもたちの気力が、1990年代にはいじめや不登校などその矛先が仲間や自分に向かっていった。無気力や自己責任という言葉が使われる土壌が学校などで生まれてきた。それまでは、上手くいかないことは社会や学校のせいにもできた。人と協力するパイプがあった。持て余しどうしようもならない若さ、そのエネルギーが向かう先に人や組織があった。良くも悪くもだが、できないことで向き合ってくれる相手がいた。それが、勉強ができないのも、進路が決まらないのも、友達ができないのも全てが自分のせいになった。できないことで向き合えるのは、向き合ってくれるのは自分しかいなくなった。戦争に負け、否定され批判されてきた社会は、高度経済成長の成功なのか、中身は悪くなったのに社会は常に肯定されるべき入れ物と化した。人が都市へと移ろい、人間関係は希薄になったと言われた世の中。入れ物としての社会を肯定するために人は生き、社会を肯定できない人の生は蔑ろにされた。人の生を肯定するために日々生成し、変容する社会は、ここにはない。バブル崩壊を最期に、日本の社会は終焉を迎え、その形を維持し、人は社会にしがみつくしかなかった。自己肯定感はこの時期に急激に下がっただろう。90年代後半には、「ひきこもり」という存在が名指され、その存在が社会問題として、爆発的にクローズアップされる。ほぼ同時期に、フリーターや非正規雇用なども社会問題となる。就職氷河期でもあって、若者がフリーターや非正規雇用でしか就職できない。その責任は当然、営利企業にあった。今までのように正社員として人件費を割けなくなった企業は、安価で使い捨て可能な商品と同じようにして人を使った。さらには、グローバル経済で競争は激化し、内部留保や投資資金も増えているのに、企業は人の生や生活を大事にすることはなかった。それにもかかわらずだ、それにもかかわらず、私は怒りを覚えているが、この不況の批判を受け、責任を取らされたのは、フリーターや非正規雇用の若い人たちだった。当時は、ほとんど多くの大人から、世間から「正社員じゃないと一人前として認められない」人としても認めないような意見があり、あらゆる場所で正社員になれなかった人に対する差別的な発言があった。それでも私たちは、誰かのせいにすることもできなくて、時代の終焉を、一人で抱え込まなくてはならなかった。当時のフリーターたちの孤独は、とても深淵であったと思う。社会問題としての引きこもりも、その深淵さの付近にある。前世代の栄華とその終焉を、皆が一人で抱え込んだ。「ひきこもり」は、期待されて育てられたが、どうやったって期待通りには生きることができなかった。
さて、文句はいい。では、どのような社会であればいいのか。そのことについて、一人ではなかなか考えられないが、今まで仲間たちといろいろと話し合ってきたようなことを書いてみたい。文字通り、希望であるが、スペースもなくなったので、また後ほどに。
2023年4月14日 髙橋淳敏