NPO法人 ニュースタート事務局関西

「自立カレーレシピ」髙橋淳敏

By , 2023年2月18日 2:00 PM

自立カレーレシピ

親元から離れて一人暮らしをしてすぐに、実家ではほとんどする機会のなかった料理を、初めてした夜のことを覚えている。袋に詰められたままの塩と砂糖くらいしか調味料もなく、買ったばかりの真新しいフライパンに、生でも食えるのだからなんとかなるだろうと、テキトウに切った野菜を、狭く暗いキッチンの一口コンロで炒め物をした。だけど、野菜を大きく切りすぎたせいで、炒めても炒めても野菜には火は通らないし、調味料でごまかそうにも味が濃くなるだけで食えたものではなくなってしまった。捨てるのには忍びなかったので、腹も減っていたし、水を加えて煮てしまえと、目をつむって、この料理は元から煮物だったことにした。機転が利くとはこのことだと、一瞬でも褒めた自分を恨むほどに、いかんともしがたい煮物ができあがった。フライパンの中で、ゴロゴロとお湯に浮かんだ野菜たちを眺めながら、こんな状況は今まで遭遇したことがないな、さてどうしたものかと途方に暮れた。そこへ、これまでに作ったことのある数少ない料理の中で、数えるくらいだが使ったことがあるカレールーの存在を、どこかの記憶から掘り起こした。ああそうだ、あの万能の塊みたいな奴をここに投入すれば、万人受けするカレーという料理になるではないかと、急いで部屋を出て、まだ馴染みのないスーパーへと急いだ。揚げ物などの匂いに誘われながらも、カレールーの箱の背表紙の作り方の絵を見たときは、まさにこれまでに私が苦闘してきた手順とほとんど同じではないかと、パッケージングされているが、まだ見ぬ茶色の塊に運命すらも感じながら、握ることもできずどうにも収まりがつかない箱を指で挟んで片手に、レジの列へと並んだ。部屋のドアを開けるや否や、その箱を破るようにしてルーを取り出して、玄関すぐ横にあった煮え汁に投下、三たび火を入れる。ここにきてライスの存在を忘れていたことに気がついたが、そんなことは最早ご愛嬌でしかなかった。何を作ったらいいか分からない時代はとうに過ぎ、米を洗えと言われて洗剤で米を洗った者がいたらしいが私はそんなへまはしないと誓いながら、カレーを煮ている間に、中古で手に入れた炊飯器に洗米をセットした。これで万事が上手くいくはずだ。そして、これこそが料理の醍醐味と言われていると思った、待ち時間だった。だが途中、待ちきれずフライパンの中身をちょっと味見をしてみると、煮物の時代の塩と砂糖が効いているせいか、絶妙にまずい。これはまた、いろんな意味でまずい。調整のつもりで水を足すと、ルーが薄まって胡麻化しただけで、これまた不味くなった。ああまずい。テーブルに出されたものは、すべて平らげてきた好き嫌いもない人間だが、店でこのカレーが出てきたら、うまいまずいよりも、「一体この店はカレーの中に何を入れているのだろうか」という不信感で、食べきる自信がない。だけど、何が入っているかは、自分で作ったので分かる。不味いが食べ物だという自信はある。新生活でこれが生ゴミになってしまうのは、またいろいろと困ることが多い。今の時代なら「カレー失敗」とでもググれば、この他の対応も出てくるのかもしれないが、なにぶんインターネットもない時代だ。これ以上の失敗は無理だと観念して、炊けた米に遠慮がちに、フライパンの中の野菜炒めのカレー煮込みをかけて食べたら、それが私にとっての解放の味だったというお話。

以来、30年弱経つが、私は誇張でもなくカレーを作った回数は、千を優に超えている。いろんなレシピを参照し、たくさんの人にも食べてもらった。ちょっとした失敗もしたことはある。だけど、この時に作ったカレーほど不味いカレーを作ったことはないが、この時に作ったカレーに勝るような経験はしていない。そして、たぶんこれからもないだろう。「自立」と聞くと、人はいろいろと準備をしたがる。今風に言うと、リスクを避ける。親が、子どものために自立の準備をする。マニュアルだとかレシピだとか、学歴だとか資格だとか、就職先だとか所属先だとか、マンションだとかアパートだとか、家電製品だとか寝具だとか、あとはお金とスマホがあればなんとかなると、自立を考えている。でもそれは明らかに間違いである。自立にとって必要なのは、今までの生活からの解放であり、たくさんの「失敗」である。失敗はしないに越したことがない?失敗は成功の元?いや、そんなことはない。失敗こそが、人生ではないか?生きた心地や、豊かさは、失敗のできる環境にある。子どもは、何度も転んでは親とは違う立ち方をする。だから、今の時代、一度失敗して家に戻ることになったとしても、親に飽きられても、何度だって家を出ていけばいい。何度でも何度でも、家を出て行って、失敗して、人生を豊かなものにしよう。

たいがいのことは、自分でできる。若いとはそういうことで、多少の無理はあっても自分でできてしまう。もちろん自分でできないこともたくさんある。自分ができないことは、他にもできない人がたくさんいる。そして、そういう仲間と協力してやれば、これまた、たいがいのことは自分たちでできるようになる。そのようなとてもいい時期を、今の日本の社会は学校などでやり過ごしてしまう。将来、「自分だけ(自分の子どもだけ)」が上手く生きていけるように、マニュアル組織に順応するための「教育」が、生き生きしているはずの子どもたちを管理している。親や大人たちも「管理」された子どもたちに依存した生活を送ることになる。あるいは、子どもたちは自分ができないことをお金や親の欲望に依存することで解決する。それは、親も子も大事な経験を失っていることであって、失敗を奪っていることは、子どもや自分たちの生活を大いに損なっているという自覚くらいはすればいい。子どもは親や大人たちがの思うように生きない。現に、子どもが家に引きこもれば、親はそのことを良く理解できるはずだ。もう、諦めた方がいい。今までの生活スタイルが崩れていくことを、自らの生の豊かさだと笑い飛ばせばいい。人生に意義があるならば、成したことよりも、失敗した経験にあると、そう思わないか?

2023年2月17日 髙橋淳敏

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