「名詞化した「ひきこもり」」髙橋淳敏
名詞化した「ひきこもり」
虐めるという動詞から、「いじめ」という名詞ができた。引きこもりもそうで、90年代の後半に引き篭もるという動詞から「ひきこもり」という名詞が使用される。「不登校」もそうだろう、最初は学校に行かないとか行けないとか登校を拒否するという動詞が、名詞化された。このような単語の生成は、流行であり現代的な出来事である。いったいここで何が起こっているのか。
「いじめ」という言葉は、「虐める」というそれまでにもよくあったに違いない加害行為より、「いじめられる」被害に重きがおかれる。虐めるという一方的な一つの行為が、「いじめ」という一環の出来事になる。直接的な一つの加害行為を断罪するだけでは「いじめ」という出来事はなくならない。「いじめ」という言葉が使用される以前は、虐める行為だけを取り上げてすんでいたのか、あるいは虐める行為が黙認されてきたのか。前者ならば、虐めることが都度是正されるかして虐められる被害も事なきを得るなんてこともあったかもしれないが、後者ならば虐める行為がただ日常的に黙認されていたことになる。たぶんその両方はあっただろうが、黙認できない「いじめられる」被害が多くなり、しかも虐める側の責任を問いにくいか、いじめる理由が分からないときに、いじめられている被害の実態を表す「いじめ」という言葉はとりあえずは便利であった。虐める行為はなくならない。それどころか同じような「いじめ」被害があると次々に噴出する。「いじめ」という出来事が起こる理由はその関係性だけを見てもよくわからない。直接的に加害を問うても、被害者は救済もされない。どうすれば「いじめ」はなくなるのか。「いじめ」は社会的事柄(問題)になった。「いじめ」という名詞には、虐める人と虐められる人だけではどうしようもない当事者間だけではない問題を含んでいる。似たように引き籠るというそれまでにもあった個別の消極的行為が、その一つの行為をやめたところで、「ひきこもり」はなくなることはなかった。「ひきこもり」という言葉が誕生すると同時に「ひきこもり」は社会問題化したはずであった。それは、「虐める」という動詞や加害行為全部をなくしてしまえば解決するとか、「引きこもる」という動詞や消極的行為全部をなくしてしまえばいい問題であるはずはなかった。「いじめ」も「ひきこもり」も社会の問題であって、いかにすればこの現代に現れた社会問題に私たちが向き合うことができるのか、個別では分からないそのメカニズムはなんなのか、それで「いじめ」や「ひきこもり」は名詞化され固定されたはずだった。だが、この名詞化を経て間もなく、虐められるやつが悪いとか、引きこもるやつが悪いというような、本末転倒が起きる。社会問題化したところで
社会がその問題を受け止めて変わったわけではなく、「いじめ」も「ひきこもり」も解決しないから、すぐに思考停止された。虐められる人は「いじめ」の後も学校に行けなくなり、引きこもる人を「ひきこもり」の後も学校や職場に行かせようとする。名詞化されたことで、最初っからはらんでいた転倒であったが、「いじめ」は個別の問題に還り、引きこもり問題は自己責任化された。社会問題化したときから、20年30年と随分と遠い地点にまで来てしまったが、それを今だからこそ問い返す意味があると私は考えている。虐める行為の加害性を問えずにきて、多くの人が引きこもるという行為を続けざるを得ないその原因は何だったか。私たちが、仕方がないと思ってやり過ごしてしまっているこの日常の中に多くの社会問題がある。「ひきこもり」もそういった問題の現れ方の一つである。
私たちは引きこもる行為を否定したり批判するのではない。むしろ、引きこもりたいときは引きこもれたらいいし、引きこもる行為を支持し、支援もする。多くの人が勘違いをしているが、引きこもり問題は引きこもる行為が悪かったり、「ひきこもり」といわれる人が能力がなかったり、あるいは病気や障害があって起きている問題ではない。何度でもくどくど言うが、引きこもり問題は社会の問題である。普通に日本社会で生活している人たちが、この問題の当事者であって、その点で現在引きこもっている人たちも当事者ではあるが、それは他の人が引きこもり問題の当事者ではないという話しにはならない。現在引きこもる行為を続けている人は、引きこもり問題に直面している当事者ではあっても、直面しているからこそ、この問題に疲弊し、助けを必要ともしているが一人で向き合うこともできず諦めてしまいがちである。彼らと協力してこの社会的引きこもり問題に取り組んでいくことが、この社会問題を解決していく最もまともなやり方と言える。私たちはそのように考えて、これからの新たな活動をやっていきたい。
最後に一つ問題提起というか飛躍ではあるが、この加害を問えない体質の根本はどこにあるかと考えるのだが、私は日本が先に起こした戦争や、明治期から西洋近代化した加害性をいまだにちゃんと問うことができていないことに依るところが大きいと考えている。この論考はとても時間がかかるので、すぐには書けないしいつも散らかっているが、いじめやひきこもりの被害の方からではなく、加害として起こるメカニズム、いじめや引きこもり問題における職場や学校や家族など社会の加害性について、今でも多くの人がなぜ無関心でいられるのか疑問である。はっきり言えば、「ひきこもり」は社会の加害を問えないことの問題である。
2022年5月21日 髙橋 淳敏