「短編集」髙橋淳敏
短編集
プリズム
光を屈折させる現象だと勘違いしていた。その現象を起こすガラスのような物体がプリズムなのだと再認識した。ここに白紙という社会を屈曲させて見せる物体、プリズムがある。通りに向かって白紙を掲げたのなら、変な目で見られるか、白旗に見えて心配されるかもしれない。その白紙を掲げた人が警察に連行される現在のロシアの映像が流れた。白紙を通して映し出された現象に、ロシア国内で起きている多くを見た気になった。3年前に「安倍やめろ」や「増税反対」と野外演説時にヤジを飛ばして警察に排除された人が、不当だと警察を相手に損害賠償請求していた判決が先月にあった。道警はトラブルや犯罪を未然に防いだと排除の理由を主張したが、札幌地裁はヤジ排除行為を行き過ぎたこととして、表現の自由の侵害と認めた。さて、これで日本はまだロシアのようではないと言えるか。言論統制とは、言って良いことと悪いことがあるのではない。発言そのもの、何も言えなくなるのである。そのような時代がまた目前に迫っている。ツイッター(つぶやき)とかまさに、ネット空間は誰彼とない言葉であふれているのに、いつからか家族や知人や友人などにも何も言わない人が増えているように思う。そういうことが引きこもり問題と無関係とは思えない。戦争中に人が何も言えなくなるというのは、時の軍部に楯突いたら弾圧の対象となったりするわけで、それは今ではロシア国内に限らずウクライナ国内においても変わらないだろう。しかし、なぜまだ戦時下とはいえない日本で、少なくとも友達に話したぐらいでは弾圧されないのに、何も言わずにいる人が多くあるのか。それとも、今は戦時下なのか。
寄せ集めの自治
自立した男性が優位であったこの日本社会においては、外の社会で認められ一人前の大人が地域内の自治も担当するようなやり方で、自治会などはボランティア的にもあった。あるいは、家主は地域外の外貨を稼いでくることを大黒柱として担当して、その名を背負った家内が地域内自治を担ったり、退職した家主が次世代のためにか余生を地域自治に捧げるようなところがあった。地域自治、ここでは地方自治体ではなくボランティアベースの自治会やマンションの管理会なんかのことを指しているが、そのような小さな自治会は防災防犯などのリスク回避以上には、ほとんど日常的には機能していないかに見える。議論や話し合い自体ができなくなっている貧しさもあるが、例えば葬式をどうするかという人の死に関することであったり、介護や障害のことであったり、子育てや教育であったり、病であったり、差別や苦悩についてであったり、それこそ独居や引きこもり問題であったり、地域で人が住んでいたら
必ず直面しているようなことを、自分や核家族の中だけでなんとかしようとしたり、外の専門家に丸投げしてしまうような、やせ細ってしまった貧相な私たちの地域の生活を自治の枠組みで省みないといけないと思う。1人暮らしや、賃貸生活者や非正規労働者なんかも含めた家主が中心ではない地域の小さな自治が、自分たちの中に生じている問題について話し合い協力し合いながら、自分たちの問題として向き合っていくようなことがなければ、今の社会が良くなっていくことはないだろう。私たちは前世代が経済成長期に商品として売り払ってしまった自分たちに直面する問題を取り戻さなくてはならない。そして、小さな自治が経験を重ねていくことにしか希望はないとさえ考えている。地域に住む人が地域外の世界ばかりを見て、自分の住む地域を省みず、地域外で自立を獲得した人ばかりが地域自治を担うならば、あるいはお金ですべてを解決してしまうのならば、それは地域自治が問題に向き合うという姿勢すらとれていないことに等しい。地域自治は人や地域の内側から生み出されるような力であり、協働の場として期待されるところだろう。
間違いを引き継ぐ~スピンオフメモVer
関西沖縄文庫の金城馨さんは間違いを引き継ぐのが大事だと話している。例えば、沖縄に基地が集中している事実、その間違いを引き継ぐことであって、基地に反対する運動の正しさを引き継ぐことではないと私は理解している。本土から米軍基地をなくそうとする正しさが今の沖縄集中になったのであって、まずは沖縄に対して続けている暴力を止めなければならない。沖縄への暴力を止めるということが正しさではあるが、その正しさを実行するためにまずは、自分たちが間違えているという事実を受け止めなくてはならない。その間違えを引き継いでいない正しさは、さらに沖縄への暴力を続ける原動力になっているだけである。間違えという言葉は面白い。「間」を違えているということなのだと思うが、この「間」には少なくとも二つ、空間的なものと時間的なものがある。空間的な間違えは、距離の事でもある。例えば日本と沖縄の距離、あるいは日本という国家の空間領土的な間違え。時間的な間違えは、やはり戦争という事実認識やそれを受け止め損ねた戦後の時間経過の間違え。3つ目には、人間的な間違えというのもあるかもしれないが。空間、時間、人間。
2022年4月16日 髙橋淳敏