NPO法人 ニュースタート事務局関西

「10人の加害者の未来」高橋淳敏

By , 2022年2月20日 10:00 AM

10人の加害者の未来と、1人の被害者の未来、どっちが大切ですか。10人ですよ。1人のために10人の未来をつぶしていいんですか。どっちが将来の日本のためになりますか。もう一度、冷静に考えてみてください。

去年、旭川であったいじめによって亡くなったとされる少女の母親が、自分の娘がいじめられていることを知り学校へ相談にいったときに言ったとされる教頭先生の言葉である。一言一句違いがないかは知らないが、あるいはこの時の教頭という人が言ったのかも確かめられないが、これに似た言葉で学校側は言い訳をしたのだと考える。少女が亡くなる前だというが、少女が亡くなった後も学校側はいじめの事実はなかったとしている。私はこのセリフこそが、端的にいじめを表したものなのだと思ったと同時に、一つの小さな地域での出来事に日本という国の名が出てきたことで、少なくとも「日本」という国が長年患っている呪いのセリフのようにも感じた。目の前で言われたのなら反論できるかもしれないが、この呪われた教頭だけを責めてもだめだろう。人としてもそうではあるが、教育者としては言ってはいけない言葉であるはずだが、今の学校や日本で戦後流布された教育が、10人の加害者の未来ためにあるという認識は、私には以前からあったし、たぶん多くの人の常識として仕方のないものとして、学校や教育がある。一人の犠牲はともかく、10人の加害者の未来のために教育があったはずだ。そして、それを行使する側の先生だから、このような身も蓋もないようなことを言えたし、そう言い切ったことが重要であった。

学校や教育が10人の加害者のためのものとなったのはいつからだろうか。1945年に終わったとされる戦後すぐは混乱期、表向きは10人の被害者のために教育はあったように見えた。戦争で敗戦もしたことにより、日本国民は国家や戦争による加害の被害者とされた。だが、捨て石にされた沖縄や日本の外から見てみると、日本は侵略戦争をしかけた加害国であり、その国民は加害者でもあった。国家に扇動されたからといって、アジアの小さな島に出兵した軍国少年が加害に加担しなかったとは言えないし、息子を兵士として送り出した母親が戦争に加担しなかったとも言えない。むしろ、戦後の日本の学校や教育というものは、10人の加害者の未来のための、もう二度と戦争をしないため、加害者とならないための教育としてあったのではなかったか。その教育を受けた世代の今の日本人を見れば、この教頭もそのようであるが、加害者にならないための教育は失敗して、すでに終わってもいることは分かる。しかし、当時は戦争を繰り返してはならないと、そのような理想をもって、国民を加害者の更生としてあるいは国家による暴力の見張り役として、子どもたちを教育した教育者は少なからずいたようには思う。

戦中は、笑い話でもなく学校にて竹やりなんかで人形を刺す練習をしていたわけだから、この時期は学校やその教育が10人の加害者の未来のためであったことに異論を挟むのは難しい。やはり、国家や日本、日本人が誕生したころに10人の加害者の未来のための教育がはじまったと見るのが良さそうである。アメリカなんかの植民地国がやってきて、国家として認知されると共に不平等条約を締結させられ、差別を受け差別されないために被植民地国から植民地国へと脱却しようとした時代から、国民と言われその国民のために、学校や教育は10人の加害者の未来のためのものとして生まれたのだろうと考える。10人の加害者の未来のための教育は、少なくとも明治期に移り変わるようなときに確立され、その後に何度も国家間の戦争を起こし、その戦争を経た今も変わらずにあると思われる。そうとするならば、ここでの教頭の詭弁にも思えた10人の加害者の未来のための教育は、日本人や国家が誕生した時代にまでさかのぼることができ、もはや加害者であるということが、明治以降近代日本人のアイデンティティと言ってもいいのではないか。それがうまく機能したかにみえたのが、経済成長期である。そのコインの裏で、絶対にしてはいけないはずのいじめが、一向に無くならないのはそれが日本人のアイデンティティであるからと言ったら言い過ぎなのだろうか。

今の教育が10人の加害者の未来ためにあるというのは、歴史的に見ても簡単には覆りそうにはない。それを無理やり覆そうとして、表向きすべての日本人を被害者と見立てて、保護されるべき国民として、隔離ネグレクトしていったのが、戦後教育の今でも続いている失敗である。10人の加害者の未来のためというのが悪いのではなくて、その教育が一人の未来の犠牲が土台となって、成り立っているのがどうしようもなく悪いのである。いじめが誰でも標的になりえるのはそのためであって、10人の加害者の未来が一つのいじめを黙認、再構築することによってしか開かれなくなったのは、最近のことであるのかもしれない。その教育や学校は、改良くらいではすまされない。私たちは今でも戦争の被害者ではなく、加害者であるという自覚、経済成長こそが加害者として間違ってもいたという歴史を再認識していくような、今の学校や教育の中身を根本からひっくり返さなければ、歴史はいつでも今いまでもいじめとして繰り返される。

亡くなってしまってもなお、1人の未来の方が大事である。誰かの犠牲によってしか、人の幸せは成り立ちえないという未来なのか?その犠牲の比率が少なければいい、例えば10人に1人ではなくて、100人に1人とかといった改良をすればいいことなのか?たとえ、現状はそうでしかなくても、そのような未来に、そのような未来しか描けない現在に、生きる希望はあるのだろうか?10人の加害者の未来のための教育とは何か。それを行使するにはいい機会かと思います。もう一度冷静に考えてみてください。                              2022年2月19日 高橋淳敏

One Response to “「10人の加害者の未来」高橋淳敏”

  1. 清水博文 より:

    私もよくいじめられていたのを思い出します。
    家が裕福だからと。
    学校でも社会でも。
    帰って物に当り散らして親に殴られる。
    こんなことの繰り返しでした。

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