NPO法人 ニュースタート事務局関西

「不文律」高橋淳敏

By , 2021年10月17日 10:00 AM

 100代目の総理大臣が決まり、すぐに衆議院は解散され選挙が始まった。夜の報道番組で党首たちが似たような主張をしているのを観ながら、選挙は久しぶりのような気はしたが、この情景はずっと変わらないと思った。成長と分配がトレンドのようだ。一体いつの時代の話しだったか。タイムスリップしたのかな。初代総理大臣は伊藤博文だった。その時は、開国や国の形がテーマだっただろうに。もちろんテレビ討論なんてなかったが、もう一度、そこからやり直せないのかな。いや、冗談ではなく私は開国の仕方が不味かったと考えている。引きこもり問題であれば、出ていった先が不味かったことにも通じている。鎖国のような状態であることも、引きこもっていることもそれが悪いのではなかったはずだ。開国すれば、外へ出ればなんでもいいってことではない。その後、戦争へと至った国の形は、開国時に形成されていた。時を戻すことはできないが、その時に不味かったことを、戦争を経てなお続いているその不味さを、変えてみせることは可能であるはずだ。

 9月の終わりに父が死んだ。4月の半ばに病が見つかり、その後、5ヶ月と少しの闘病生活があった。肺がんであったが、それが死に至る病だとしても、父が作った癌であるから、うまく付き合っていく方法もあるはずだと、病と闘うだけではない遅ればせながらの父の身体との対話にも望んだ。が、やはりそれは「闘い」だったと今振り返っても思う。癌は闘っても治らないのではなくて、病との「闘い」は思っているほど単純ではないということなのだろう。父の身体は最期の最後まで丈夫であった。その丈夫な身体が見る見るうちに衰弱していくしかない様子を、そばで見ていることしかできなかった。体の丈夫さは、病に対してなす術はなかった。その早さに、丈夫さに自然の時間を体感した。病は健全な体を存在の根拠にしていた。私とは分かれてある父の身体の全ての機能が停止し、こちら側には戻ってこれないことが死を意味した。父が息を引き取った瞬間だった。自宅で看取り、そのまま通夜をし、葬式の後は焼かれて父の身体は灰となった。3日ぶりくらいに富田町に戻ってきた駅からの帰り道、世界はすっかり変わってしまったように思えた。切り取られた風景はどこも変わらないようにも見えるが、違う世界に迷い込んでしまったようだった。この世界は父がどこにもいない世界であり、父がどこからでも見守っている世界であり、数日前にこの道を歩いた時とは違って、今の私は父の死を経験していたのだった。

 コロナウィルスが流行して2年が過ぎようとしている。人間の体に何が起きているのかも分からなければ、世の中一寸先には何が起こるのかも分からない。案外多くの人が涼し気な顔をしているかにみえるが、多くの変化や犠牲が伴ったはずである。そのしわ寄せは一体どこにいっているのか。半分以上マスクで覆われた涼し気目元の下は、涙や鼻水でぐしゃぐしゃになっているのかもしれない。多くの人がコロナウィルスに感染した。多くの人はワクチンを打って、その翌日は寝込むことがあった。仕事や学業にあぶれた人もあれば、その形態が従来のものから大きく変わったような人もいる。そしてほとんどすべての人がマスクをするようになった。だが、その見た目以上に、実際起きたこと以上に、この世界は変わっていないように思う。1人1人が感覚を閉ざし、平穏無事を装ったこの世界に、引きこもっている。この変わらなさは、良いことなのだろうか?多くの人は、この世界が平穏無事であることの素晴らしさを説く。歴史も繰り返す、季節も繰り返す。その中で、自然は移ろい、人は生まれて死んでいく。そうだ、心の開国はまだだったのだ。また、その季節は巡ってくる。今度は間違わないようにしないとね。

 コロナウィルスの流行は父の病の発見を遅らせた。入院も経験したが、お見舞いにも行けないような入院は、父の身体だけを切り離して病院に預けることでもあった。それは父にとっても自分の心身を分けてしまうことに等しかった。でも、そのことが最期在宅での闘病を決断することにもつながった。コロナウィルス流行状況下における病院施設の融通の効かなさが露呈されていなければ、父や私たち家族は在宅で父を看取る決断ができていなかったかもしれない。自由を愛し、表向き誰に対しても穏やかな一面はあったが、不文律の多い人だった。仕事ばかりしていて、家庭や社会すらも顧みないその時代よくあった企業戦士であった。火葬場で父の体が焼かれている間に、父の妹から父が高校生の時に教師との関係が上手くいかなかったらしく長い間引きこもっていたことを聞いた。私がライフワークとして引きこもり問題に取り組んでいることを知ってはいても、父は自分のことを私に話すことは一度もなかった。たぶん、引きこもっていた部屋から出るときに父はいろいろと決めごとをしたのかもしれない。父にとって引きこもっている部屋から出ることは解放されることを意味したのではなかったのだろう。父の死や不在を恐れていた母親に対して、私が厳しく当たってしまったことがあって、たぶんそのように最期まで生に向き合うことをあきらめなかった私の態度を父が亡くなる当日に「アツトシはあなたによく似ている」と父の傍らで、母が言ってくれたことがあって、その言葉が父の耳に届いてくれていたら、それだけで私は救われたと思う。
                                                            2021年10月16日 高橋淳敏

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