「個にとっての重要なのは自立ではなく自治である(前編)」高橋淳敏
現代社会における個人の自立は、主に「経済的な自立」のことを言っている。家事や子育てのほとんどを妻に任せたり、酒やたばこに依存はしても、会社に雇われ賃労働していれば、自立しているかのように振舞える社会であった。依存だけが悪いのではない。「自立」の反対は「依存」ではなく、自立生活の中にこそ一方的で過度の依存は常に問題であった。「経済的な自立」は、お金に依存する関係の上でこそ成立し、個人の自立のように見えているのは、過度な依存ともいえるのであった。依存を自慢できるような社会(自立できている欺瞞)こそが、真に追求されるべき意味のある問いである。会社での賃労働依存や、そこで得た労賃だけが頼りの閉じられた核家族生活が「経済的な自立」と称され、問題にされるどころか、引きこもり問題においては、就労すれば社会保障をもらえば解決すると「自立」は目的にされていた。経済的自立生活への過度の依存は、DVや虐待や暴力や差別、アディクションや症状として個人に表れても、その「自立」自体があまり問題とされることはなかった。子育てや教育においては、子どもが人材として労働市場で価値があるように見せるため、受験勉強や資格試験勉強が自立においての主な課題となっている。村落共同体から離れ、都市郊外で地域や親せきとの関係をなくした家族や学校は、親子関係や受験勉強やお金に依存せざるを得なくで「個」を尊重する術を知らず、「個」を育むことができなくなっている。皮肉なことに、個人が「自立」するための勉強や依存的関わりが、「個」をなきものとしている。会社組織にとっては、優秀な個人は不要で、指示に従う問題を起こさない依存した人材が必要である。引きこもり問題は、この経済的依存関係の失敗にある。このただ失敗ともいえない経験から学べるのは、経済的自立の仕方ではない。豊かさや個は自立をしてから実現するのではなく、いつの時代でも(物質的ではない)豊かな共同体の中でしか「個」は育まれず、そこから稀に自立するような個人が出ることである。共同体なくして「個」は生まれず、共同体のない現代の「自立」は、所属先探しくらいの依存課題でしかなかった。私たちは100年以上もの近代化の長い年月をかけて、「経済的自立」が現代社会における依存(アディクション)の形であり、「自立」が集団的な症状や障害(ディスオーダー)であることを理解できるのではないか。
土地と人民が明治政府の所轄するところとなる版籍奉還の以前、平安時代から江戸時代にかけての長い間には、令制国としての区分があった。室町時代の惣を母体に形成された江戸時代の郷村では、一生に一度あるかないかの越境で、都市で会った人に「お国は?」などと問われたら、「摂津の国で、」などと応じるのであった。それぞれのお国が最大の単位であり、農民など庶民の生活は自治村落にしかなかった。幕府からは藩とも区分けされていたその曖昧なお国の集合体が、今の日本という近代国家となったのは、江戸の終わりから明治にかけてのわずか何年かの間の出来事である。近代国家の成立のきっかけとなったのは、西洋列国といわれる植民国の脅威であり、具体的にはそれらの国との不平等条約の締結による事態であった。日本という国家は、植民国から差別され被差別国として成り立ち、西洋列国から植民地化されることを避けるために、植民国としての近代国家を形成し、被差別国として与えられた劣等感をそのまま他国を差別、植民化する力に変えていった。いわゆる国家の自立であって、この時期に日本という近代国家と国民が誕生する。文明開化や富国強兵など、数年前までは日本という国家の存在すらなかったところに、お国で生活していた人民は日本の国民や市民として束ねられ、植民差別国家に従属させられていった。それが後に戦争へと至る国家の生い立ちである。国家の「自立」という目的のために、国民は作られ諸外国は利用され、日本という国家との依存関係が捏造されていく。
近代国家における個人の自立は、この国家との依存関係でしか謀ることはできない。現在の資本主義社会では、工業化産業化金融化する生活、労働や社会保障の中でしか「自立」は画策できない。引きこもり問題は経済的依存関係の失敗だとしたが、その「自立」できず引きこもる若者が何百万人といるのだから、これは国家の自立が失敗しているとも言えるのではないか。自立が失敗するのは当然で、失敗するのはかまわないが、その過ちを認めなくては、いつまでも間違った自立であり過度で一方的な依存関係を量産していくことになるだろう。といって100年以上前に戻るのでもない、次回は「個」と「共同体」についてもう少し検討したい。
2021年7月17日 高橋淳敏