「「普通」教育とはなにか」髙橋淳敏
最近、国は不登校の子どもに対して、学校に行かせることを目的としない方針を出した。今までは不登校の子どもたちに対して、学校に行かせることだけを目的としてきたのに、そうではないと最近言い始めたのだ。憲法においては、法律(教育基本法など)の定めるところで子どもたちに「普通教育」を受けさせる義務があるわけだが、今回のように義務教育を受けさせることを目的にしないとするならば、それは国による憲法違反だろうが、ここでいうところの「普通教育」という名の延々続いてきた学校教育の破綻宣言とみるのが素直な読み取り方であるだろう。憲法違反でないのならば、「普通教育」とは今の学校教育だけを意味するのではない、あるいは今の学校教育は改善不可能で「普通教育」ではないと言ったのだった。今の教育制度や学校教育に国として愛想をつかせたのだろうが、何十年と渡って孤立しながらも代わる代わるボイコットやサボタージュしてきた不登校や登校拒否などと呼ばれた子たちのストライキがようやく実った事態が起きたと考えるのがいいだろう。国は今の学校教育が少なくとも不登校などの子どもたちに対して役に立たないと、ようやく音を上げたわけだ。この背景にフリースクールの学校化があるが、単位や資格取得に対して多少の助成や補助があっても、親の収入格差もある中では、学校経営の規制緩和がされた以上に意味はない。フリースクールが学校教育に対峙するわけではなく、緩やかに学校制度を推進してきた結果である。国はそのような教育にお金をかけたくないだけで教育統治をあきらめたわけではない。今までの学校教育の反省もないのだから、助成や補助金などを理由に、フリースクールはすぐにでも今の学校制度の中に取りこまれていくことは予想される。例えば、認定フリースクールなどが出てきて、従来の私立学校のグランドや校舎がショボくなっただけで、何も変わらないことも想像できる。あるいは軍国教育などが各所で復古することも考えられる。それでは子どもたちのためになりはしない。変わらず親の責任に委ねられるだけで、子どもの機会が増えたことにはならない。学校教育の改善なんてことではなく、自分たちで教育について一から考え作っていくようなことを今しなければ、せっかくの機会を逃してしまうことになりはしないか。それにはまず反省として批判されるべきは、企業に就職するためだけの大学を頂点とする学校制度であり、私たちの生活や生を省みずお金儲けや国や企業を強化するために「人材」などという言葉を教育の軸に取り入れている学校教育自体の在り方である。私たち一人一人の生に代わりになるものなどはあるはずはなく、そのことを教えることが憲法に定めるところにある「普通教育」であるはずなわけで、今の学校教育は、それが誰であってもいいような全く反対のことを教えているようである。そのような反省もなければ、ただ上滑りするだけで今よりも行き場を失う子どもたちが増えかねない危機でもある。
ここでは教育論を示したいのではなく、教育を広く自分たちで語り、そのような場を自分たちで作る機会にしたいと考えている。いま変革を余儀なくされている「普通教育」はまずは未成年者に対してあるものなので、成年者が未成年者に対して行う教育というものについて考えていきたい。親が子に対して、先生が生徒に対してする教育とは違って、成年者が未成年者に対してする教育とはどういうことなのか。最近、これもまた国が成年者の年齢を18歳に引き下げた。今までは20歳で成年とされたが、投票や結婚、法律の適応年齢など変更された。酒やたばこなどは20歳からなど一貫性はないし、クレジットカードで借金もできるとして、現政権の経済政策の一環である面も拭えない。だが、早くに大人になれる、社会から人として認められる点では、成年者年齢引き下げは喜んでいいのかもしれない。未成年者というのは保護されていて、保護なんて聞こえはいいが多くの権利を奪われている状態にある。結婚するしない自由もなければ、働くことも制限されていて、酒やたばこも自由ではなく、できないことが多い。遊ぶのが仕事といわれながらも、保護の下で時間も場所も制限されている。成年者はしばしば未成年者に対して、子どもの方が自由でいいなどと言うが、事実は逆で成年者の方がよほど自由である。大人になりきれない成年者が、義務ばかりを主張し子どもの方が自由でよいなどと発言するのである。それは明らかに嘘を言っているのであって、そんなことを教えるのが教育ではないはずだ。断罪されることを恐れなければ、大人は法を破ることだってできる。子どもは法を破るようなことをしても許されるかもしれないが、ただ禁止されている状態にある。大人の方が社会から人として生きる権利を与えられていて、自由であるはずなのだ。金持ちになるのも、貧乏になるのも、タワーマンションで暮らすのも、野宿するのも、ハードワークするのも引きこもるのも、その人がそうしたいと願っているのならば、成年者であればそれは制限されることはなく、そうやって生きたいという権利は守られなければならない。成年者が未成年者に対して行う教育とは、成年になればそのように多様に生きていけることや、実際生きてみて自分のことをどのように考えるかなどについて語れるのではないか。例えば、人を殺してはいけないとか戦争をしてはいけないではなく、成年になっても人はなぜ人を殺すのか、国は戦争をするのかについて、ただ禁じられている未成年者に対して成年者は教えることができるだろう。
2018、8,17 髙橋淳敏