「一億総混乱時代」髙橋淳敏
いまのこの原稿を書いているのは2016年7月の参議院選挙前だが、この通信が出るころにはテロでも起こらない限り、選挙の結果はすでに出ている。どうだったろうか、やはり自民党の勝利だろうか。それとも次の選挙や、憲法改正を前に、だめなことはだめだといえる野党政党の爪痕が残っただろうか。長く低迷する政治とともに有権者は弱り果て、この機に乗じて統制を始めようと躍起になっている自民党勢力と、どうしたらいいかはわからないが一部の人の勝手にはさせまいと阻止しようとする野党政党の戦いで、見ていると与党側も一枚岩ではないし、野党側もそれぞれの思惑が見え隠れしていてまとまりはない。といって、第三極がでてくるかといえば、これが弱い。白黒つけなければ、○か×かでないと分かりにくいのだろうが、他が出てくるようでないと、物事は上手くいかないのではないか。今回も与野党混乱している中で、現政権のことを○か×でやろうとした結果、消費税や憲法改正など具体的な争点はうやむやにされてしまったのではないだろうか。アベノミクスは明らかに失敗だが、その恩恵を受けていないことが恥ずかしいからか、そこはみんな白こい顔をしている。この方針に賛同しないのは自分が価値のない人間だと認めるようなのだろう。自分より生活が貧しそうな人と比べて私はまだましだなんて、「足るを知る」なんて言葉でお化粧をしただけの、弱いものいじめの傍観者だと私は思うのだが。もっと豊かに生きたい。さて、この投票行動で何かを主張することができるのだろうか。みなさんどうだったろうか?
テレビなどを批判して「一億総白痴化」といったのは大宅壮一という評論家だが、この人はわれわれが普段生活している高槻市の富田(村)町に生まれ育った人でなじみがあるし、この地域の生活者として先輩である。エッセイなんかで戦後の日本人を一億総被害と形容してみたり、「一億総~」という言い方によって日本の行方を批判的にも言い表したかったのだろうと思われる。「一億総~」なんて言い方はどうも戦争時の「一億総玉砕」からきているようだが、これなんかは批判などではなく軍部や時の権力者からの掛け声であって、現政権が「一億総活躍社会」といったのに近い発言の仕方である。意味としても、私なんかは「一億総活躍!」との掛け声は、「一億総玉砕!」というのと同じような感じで、そんなのたまったものじゃない、そのような立場から言われたくない、このような政権が力を持つような社会からは早く逃げ出さなくてはならんなと思ったのは、私だけでもないはずだ。でも、一方でこのような社会に乗り遅れてはならないと思うのが薄情で、日本や家族を守らなくてはならないなんて思わされれば、自らが利することがなくとも何が敵かもわからず、原発や集団的自衛権や憲法改正案がアベノミクスの掛け声のもとに活躍していくのを、眺めているのだった。一億総白痴化時代に生まれ育ったわれわれの世代だから仕方もないのだろうと、あきらめもするのだが、どうにもやりきれないのが心中である。
引きこもりが始まったのは、一億総中流社会とまで言われた社会に産み落ちた子どもたちが、さてどのように生きていこうかと、大人になろうと社会参加を考えたときである。いいテレビが欲しい、マイホームが欲しい、車が欲しい、誰からも邪魔されず便利でファンタジックな幸せ核家族を作りたい。そのような薄情な物語でも個々人の間で共有されているならばまだ良かったのか。一億総白痴化と批判されようが、皆が幸せになれると思う方へと歩んだのだった。それぞれが私利私欲でも横を見れば、皆が同じように情けない顔をしていてよく分からずとも協力することがあった。そして一億総中流社会が達成され、その申し子たちが社会に出るとき引きこもった。働こうと意欲があった若者までもが、就職氷河期などで社会の入り口ではじかれ、人間不信にまでなったものだった。違うじゃないか、と。みなの所得を増やすために我慢して築いてきたこの社会とはいったい何だったのか。だれも自分や家族のことぐらいしか考えてなくて、仕事でも協力なんかしてくれんじゃないか。働くといったって自分のためにだけでしかないじゃないか。これでは存在自体が迷惑じゃないか。引きこもっていれば、他人に迷惑かけんし、無駄なお金も使わんし、栄養たっぷりの培養液に浸かって夢見がちな生物として生きていくのなら、これこそががまさに時代の理想ではないか。引きこもることこそが社会の要求じゃないか。
そんなようなに思っていた人たちが、でもいろいろとたまらずニュースタートの鍋の会にきて食べて話したり、一緒に生活する中でぶつかりながらも人との信頼を回復していく様子は、とてもドラマチックであったし予想外のことが連続して起こる人間物語であった。それだのに、われわれは、いまでも周りから培養液の中で夢見て眠っていればいいじゃないと、起きるな起こすなと何度も何度も同じ選択をせまられ、いや培養液はいいのだけどもいやいやと、何度もつらい同じ選択をさせられる。それは普通ではない。何かの依存症から脱却しようとしているに過ぎない。そんな選択をいくらやったって、報われないし、友達なんかできやしないし。いや、いや、そうかもしれないけども、いやいやどうにも。社会に出るということは、孤独でいつもパニック状態にあることなのだ。こんな社会に誰がした。混乱はここに極まれり、あとは悪夢の中で事態は決定されていくだろう。ああ、友よ。正気を保つのが困難だ。
2016、7,15 高橋淳敏