NPO法人 ニュースタート事務局関西

「障がい者」 髙橋淳敏

By , 2016年6月19日 10:00 AM

その時代や地域に適しやすい人の姿はあっても、それらを超えた人の本来あるべき姿というものはない。この先、人の足が進化して自立できなくなり、ほとんど全ての人が車いすでの生活になれば、段差というものはなくなり階段なんてものは遺跡となる。「昔の人たちは歩くことができて楽しそうだったが、階段の上り下りなんて不自由な生活を強いられていた」と、未来人は車いすに乗り、遺跡を巡り、階段を見て感心するかもしれない。車いすであれば、部屋の天井は低くてかまわないし、建物が低くなり空は高くなる。そのような時代にも人の生活があり、経済があり、競争があり、社会がある。そして、車いすに乗っている人は障がい者ではなく、自立して生活する人こそが不自由を強いられ、今でいうところの障がい者となるだろう。

障害は機能の欠損であり、機能不全を個人が所有しているように、ほとんどの場合は語られているが、それは正しくはない。障害とは、社会の側から個人に対して設ける「障害」のことである。よって、障害は個人が所有するようなものではない。障がい者とは、欠陥ある個人などの意味ではなく、社会との機会を社会から奪われている人のことをいう。生存だけでなく、表現においても自由を認めている今の社会において、障がい者に限らずその機会を奪われている人は多くいるが、それは自己責任なのではなく、社会の機能不全の問題である。そのような社会を変えるためには、障がい者がその障害を乗り越えるのではなく、社会の側が個人の前に設けてある「障害」を取り除き続けるように考え、実行していくことである。そのためには障害を、「障がい」などと表記してお茶を濁したり、あるいは障害を個人の特性として美談に終わらせてはならない。社会が設けている「障害」を常に自覚していなければ、障がい者が社会にかかわり続けることはできないし、社会が「障害」を取っ払う機会が訪れることはない。

身体障害や知的障害とも並んで、最近では精神障害といわれるようにもなり、精神においても社会が「障害」を設けていることが、明らかになっている。もちろんそのようなことは以前からあったわけだが、このことは精神疾患などとされ医者の領分に追いやられていたことが「障害」として、社会との間に再提起されたのである。それにも関わらず、「障害」に対して無自覚な多くの医療関係者は、いまだ脳機能の障害であるとして個別診断、投薬治療などを行って、それを仕事としている。「障害」の問題を医療に任せる社会に担保されなければ存続できない医療事業に、「障害」を取り除く仕事はできずに、主には個人を障害化していくことがその業となっている。高機能広範性発達障害などという無内容な診断名は、医療事業の中の混乱であり、「知的に問題ないが広汎に発達の問題がある」ということなのか、もちろん個人を特定しているのではなく、今の社会や医療の「障害」をその名称は表している。ちなみにその障害における主な症状は、コミュニケーションにおける問題とされているが、まさにそのようである。

一方近年、「障害学」という新しい学問が出てきた。古事記が引用されるほどに障がい者の歴史も長い。奈良時代には琵琶法師をはじめ盲人が活躍し、第二次世界大戦下ではユダヤ人とともにドイツ人精神障がい者が同じドイツ人によって大量に殺害されている。障がい者がどのようであり、どのようにして扱われてきたかを見れば、その時代や地域のことで分かることは多い。「障害」は社会システムの機能不全により現れるのであれば、その社会が乗り越えるべき問題である。社会との間に置かれてある「障害」を、正面から取り除こうとすることがコミュニケーションであって、それにより新たな生活がはじまり経済が生まれ、歴史が作られる。現在の日本の福祉政策は、製薬会社や医療福祉事業などを無駄に儲けさせ「障害」を強固なものとしてより拡大している。さらには、支援費という名の兵糧や支援者をその仕事ごと「障害」の向こう側に投げ入れ障がい者と一緒に排除している。今の社会ではその「障害」を自覚するものが、障がい者であり当事者といっても過言ではない。障がい者はしばしば健常者の生活や安全を脅かすものとされるが、社会保障や戦争や暴力の問題はこのような経済のしくみに問題があるのであって、障が者こそが我々の生を明るみにし導き、保障してくれる存在なのである。

2016,6,17 髙橋淳敏

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