「スパイは職場にやってくる」長井潔
「ベランダの窓ガラスを割っていいか?」
日曜の昼、喫茶運営の仲間から電話がきた。彼が店を出た瞬間に鉄扉の内側に立てていた2メートルの重い合板が倒れ、扉が開かなくなったという。
店に来てみた。
鉄扉は3センチしか開かない。ノブの下まで合板が沈んでいる。合板に触るためにドアを開ければ内側のノブに合板が引掛かって上がらない。ドアを閉めれば引掛かからないが合板を触れなくなる。
皮肉な状況に呆然となる。なぜ合板を玄関口に立てていたのか。
店はビルの5階で他の建物とは隣接していない。鉄扉以外で近づけるのはベランダの窓ガラスしかないが、内側から鍵がかかっている。
(ミッション・インポッシブルだ…)
こんな状況は映画でしか見たことがない。スパイなら屋上からロープを垂らして別の窓から入るだろう。
スパイ映画の音楽が頭に響く。困難な事態を楽しむ自分がいた。
排気口を見る。スパイなら90度に曲がりくねる中を這って登り天井を割って入るだろう。現実には、墨だらけの暗闇を突き進む自信はない。
ベランダはどうだ。スパイならガラスを割らずに隙間から針金を二本差して動かし内側の鍵を外すだろう。現実には、針一本も通さない構造だった。
(明日、ガラスを割ろう)
普通ならば修繕に3、4万はする。段取りを組むのもわずらわしい。肩を落として帰りの電車に乗る。
(扉を締めたまま内部の合板を持ち上げる。そんなの手品だ…)
そう思った瞬間に映画音楽がまた聞こえてきた。
ピアノ線は直径1ミリの太さで50Kgに耐えることを調べた。
翌朝9時に彼と集合。
「ガラスを割るしかないだろう」
不安げな彼に自分のアイデアを伝える。合板にピアノ線を取り付けて鉄扉を閉め上部の隙間から線を引く。
「失敗したら反対側のガラスが割れるよ」
鉄扉の上部には1ミリ前後の隙間はある。
「予約もある。12時には準備を始めたいし時間がない」
「あと3時間もある!」
彼に言い放つ。
「材料を買ってくる。知恵を借りたいから待っていてほしい」
彼がうなずく。
チャンスは一回。失敗すればガラスを割るしかない。ピアノ線とフック、大工道具を調達した。
鉄扉の隙間に手先を入れフックを合板に当てる。ねじ込むまでの力が出ない。やがて指先からフックがこぼれドアの内側に転がった。三度やっても同じだった。
これも、現実にはできない方法だった。3センチの隙間は手首さえ通さない。
(あと1センチでも広かったら…)
「君の意図はわかった。のこぎりを引けばいい」
(えっ?)
「のこぎりなら隙間を通る。合板に一筋入れる。ピアノ線の末端で輪を作って筋にのせれば引っかかる」
彼が静かに作業し、ピアノ線は見事にかかった。引っ張ると簡単に合板が浮いた。すかさず鉄扉を押して体を差し入れる。
入れた!玄関口は傷ついていない。彼と手を取り合って喜んだ。
扉を開けたのは私ではなく彼だった。
仲間と知恵をつなげば、いかなる扉も開くかもしれない。
2016,3,16 長井潔