「テレビもないネットもない新聞もない」髙橋淳敏
アジアでも少子高齢化が問題になっているとラジオが言っている。タイでは他人が介護することに抵抗があるようで、親は子どもが世話をするとのことで(日本もかつてはそうだったか)、老人施設などを利用したがらないし、それがためかあるいは制度が先か、日本のような介護保険システムもないとのこと、それもあって大変だと。それにしても何度かこの通信でも触れているが、資本主義で経済成長をとげた国は少子高齢化するようだ。これはなぜなのか、なんとなくわかるが、よくはわからない。誰かそんなことを言っていないかと調べようとしたことはないが、長い間疑問に思っているのに、解答には出会ったことがない。というか、少子高齢化が進む前提での経済や社会や人間などについての理解に出会わないのが不思議なのだと思う。誰もがちゃんと理由を説明しないが、経済成長した地域は少子高齢化するのである。どうもこの事実は不都合なようである。なぜならば、少子高齢化すれば、経済はやせ細っていく。一部資本家たちが、痩せていないように隣国や他地域をいじっては取り繕ってきたが、その金は庶民に行き渡りはしない。そのような資本家たちは、庶民が企業に投資するなどには使わないのを知ってお金をそこに流さない。このシステムを維持拡大するために善意でもってお金でお金を産ませる。そこで増えたお金によって庶民たちにおこぼれがあるからと川の流れを我々の方に向けたりはしない。一部富豪はどんどん太り、庶民たちは徐々にやせ細る。そのうち、太りすぎで動けなくなる数少ない資本家と、痩せすぎて気力を失なった大勢の庶民で溢れかえることだろう。いやもうそんなところなのだ。資本主義を守もろうと肥えてしまっただけの人に、その社会しか頼ることができなくなって分断もされた庶民には革命も起こせない。やれて強奪だろうが、資本家や国家にとって、このシステムを守るために米をばらまくことは、痛みどころか快楽でありシステムの肯定になる。強奪が起こる前に彼らはばらまく。たっぷりの余裕を残して。それで私たちはまた経済成長の夢を見させられるのだが、やはりそこからは降りるしかない。
学校は一体何をするところか。かつては、近代国家として他国に追いつけ追い越せと、国民教育をする国家的なプログラムであった。それを引き継ぎながらも、一人一人が幸せになるためにも読み書きも必要だ算数も必要だと、大方変わらずやってきているわけだが、いじめや不登校など少なくなっていくこともない。少子化もあってか、個別に近い形で指導するほうがよいと、できる子とできない子、普通の子とそうでない子をクラスで分けて教えてみたりしている。でも結局そこで何を教えるかといえば、「我が子だけは」という親や世間の欲目に答えるべく、いい大学に行かせるためであったり、可能性を潰さないためにと散漫な付き合い方をしてみたりと、引きこもりも減らなければ人と人の溝は広がり、教育現場でも一方的に誰かが話すか、当て推量的に言葉を投げかけてはそれに終始するコミュニケーションに溢れかえる。国を豊かにするでも、人を豊かにするでもいいが、結果として他地域の人とのコミュニケーションを不可能にし、この国が戦争に向っているのであれば、それは教育や教師の敗北なのではないか。勝ち負けでもないが、いったい教育とは何を教えようとしているのか。無いのなら、学校で勉強などさせず子どもたちにもっと遊ばせたらいいではないか。
私たちは、異国のことや歴史や他人のことを知りたかったし、いつまでもそれらを知りたいとは思うのだ。研究はそこに当座の答えを出すことであるし、教育はその研究を根拠にして教えることでもあるが、いつからか答えは大事にされなくなり、答えが適当であることも多くわかり、現場が教えやすいための研究成果をつくるようになってから、教えることは不可能になり、授業は成り立たずそれら偽研究の巣窟たる大学などを盲目的に目指す勉強の中で登校拒否や引きこもりなどの問題もでてきたのだろう。
引越ししてからしばらく、テレビもネットも新聞もない生活をしている。ニュースはAMラジオで少し聴いたり会話の中でごくたまに出たり、電車の中で新聞を読んでいる人の見出しを読む程度でしか知らなかった。社会と切り離された感覚もあり、少し不安でもあったがそれほど不自由もなかった。普段からあまりやらないと思っていたが、それでも常に情報は自分の中で積み上げていったり、更新していったり、求めたりしているものだと感じた。そのような機会が極端に少ないと、自分の中の考えが自分の中で留まり発酵していくような感覚がある。腐らず、何か醸し出せればいい。
2016,3,18 髙橋淳敏