NPO法人 ニュースタート事務局関西

引きこもりを選択できるのか?

By , 2013年12月24日 10:34 AM

そもそも私たちはどれほどの選択肢を持っているだろうか?

引きこもりの状態にある人をめがけて、その家などに訪問しだして13年ほどになるが、今までに引きこもりを選んでやっているという人はいなかった。もう少し詳しい言い方をすれば、休むつもりであったり、嫌なことはやらないという覚悟であったり、仕方なしであったりして、引きこもりの状態になることはあっても、その状態を自身で日々選びとっているという人はいなかった。それと同じようにして、引きこもりの状態にない人ともたくさん会ってきたが、例えば働いていたりプラプラしていたり学生であったりしたが、その状態を日々選んでいるという人もそれほど多くはないようだった。例えば、引きこもった子を抱えた親は、その状況を選び取っているのではなく、仕方なく過ごすしかない点においては、引きこもりの状態にある人と同じようであった。親は引きこもるという選択以外なら…人に迷惑をかけない選択以外なら…あなたの将来をどのようでも自分で選択していいのだと、親が選び取っていない自身が置かれた状況を、引きこもっている我が子が選択できない問題にすり替えたりすることはままあるが、そもそも私たちはどれほどの選択肢を持っているだろうか?同級生はうまくやっているではないかと、この時ばかりは親子が声をそろえてやっかむようなことがあるかもしれないが、一見うまくいっていそうなその同級生も本当のところは日々を疑問にも不安に感じながら過ごしているだろう。昔に比べて選択肢は増えたように見えるが、同じようなものばかりで選べることは減ったのだ。うまくいっていなさそうな同級生もいるはずだが、それらは隠されてしまうし見て見ぬふりをする。それでも、一度引きこもればその状態より良いと思える選択をしなくては、引きこもる状況を保てない何か不幸らしいことでも起こらない限り、引きこもりの状態からは抜け切れないだろう。一見うまくいっていそうな同級生のように、世間が良いと言っている選択肢はたくさんある、ように思える。しかし、引きこもりよりも良い選択肢が、しかも引きこもっているからこそ目の前に現れる機会もなければ、実はあまり選べるものはなく、なかなかにうまくいかない話であるのだろう。

引きこもっている人やその家を訪問していると、いつもとは違う土地に行くことになるので、食事は楽しみにもなるがだいたいは不満のままに終わる。訪問先の人や、土地の人に聞けて食べに行ける時は満足できることもあるが、そういうことはあまりなくて昼食なんかを一人で選んで店に入って食べることが多い。便利な場所にはだいたいチェーン店ばかりが目立って、その中で選択をするはめになる。どんぶりや定食やハンバーガーなど選択肢はあったりするが、まずくはないのは知っているがこれがなかなか選べずで、より選択肢を求めてコンビニなんかに入ってしまったらその選べなさに愕然として、もうどうでもよくなって適当なものを買い空腹だけを満たすことになる。美味しいものを食べたいのだが、それで不味くとも仕方なしとは思うが、それらチェーン店のメニューはここではないどこかで誰もが作れるものへと周到に準備され、失敗のないそれなりのものなので味は濃いが味気ない。食事は空腹を満たすだけの行為となり、せっかくの昼食が楽しむのとは程遠い出来事になることはよくある。幾度もある昼食と一度限りの人生の選択の話は、似たものではないかもしれないが、一度の食事にかける食欲と生に執着するからこそ選択できないでいる様子とそれほどの違いもないように考える。選択肢がただ多いから恵まれているなんて話ではない。とりあえずやってみればいいと皆はいうが、アルバイト情報誌や専門学校、ややもすれば精神科やニート支援のパンフレットなどを陳列したところで彼・彼女らは一度きりの人生だとこだわるからこそ、そこから自らの生を選び取ることはできないだろう。

10年、20年と留置所にいるような生活

昔は食べるものなんかに選択肢などはなく、作る人も選べなかったのでそのことによる不幸はあった。でも今もそれほど変わらないのだ、女性が作っていたものを今はアルバイトが作るようになり、種類は増えてもどれを選んでも味は変わらないのだから、顔が見えないだけひどくなったくらいだと思っている。もっと昔は元服などで、職業を選択することもできずに期間を置かず子供からすぐに大人となったわけだが、今では青年期やモラトリアムなどと言われて選択できるような期間として設けているつもりだが、引きこもり状態にあるということは選べてはいないので、終わらない青年期やモラトリアムを過ごさざるをえない。それは、ある期間をすぎると10年、20年と留置所にいるような生活になってくる。何をやったわけでもないのに、何をやるわけでもないからこそ、こういうのを不幸とはいえないのか。そしてこの不幸を自ら選び取って生きていると言わせるのか?

人の話をただ聞けばいいと思っているカウンセラーと同じように、引きこもりを放っておくべきだという精神科医は多いが、彼らが引きこもりの状態を肯定することがどれほど困難なことなのか分かっているとは思わない。何にしても彼らは訪問することもままならないので、そういう理解でも仕方ないが彼らや彼らのような態度の人間が社会への窓口になっているのだから何とも口惜しく思う。選択ができないのは本人たちのせいではない。10年くらい親とも顔を合わせず家からも出ず口も利かない人の部屋を、2年ほど訪問し続けてたことがあったが、ある時親の都合か本人のためを思ってか、親も住んでいたその家を売却することになった。私の方から話すばかりで彼からは一度も話しをしてもらったことは無かったが、本人に選択をせまる機会になると思い賛成した。そこでようやく提示できた選択肢は実際には2つだけだった。新たな家で同じようにして引きこもる生活をするか、ニュースタートに来るか、彼はそれほどにはニュースタートに来たかったわけでもなかっただろうが、それ以上に新たには同じように引きこもる生活は選択できなかったのだと考えている。

2013年12月20日 高橋淳敏

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