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みんな「ぼっち」

By , 2013年8月16日 10:00 AM

京都大学の学生食堂のテーブルに、向かいに座る人の顔が見えないように視界を遮る板が立てつけられたと7月27日の朝日新聞の夕刊一面トップに、そのような記事があった。食堂の食卓に「ついたて」が置かれたことが夕刊といえどもトップ記事になるなんて、平和な世の中だと思われる方はいるだろうが、私はこの出来事がとても気になった。   それでも、実際に現場に行って確かめたわけでもないので、文章とその写真から推測するに、すべてのテーブルに「ついたて」がされたわけではないようで、選択としてそういう席が用意され座われるようになった程度のことは分かった。巷にあるファストフード店には、もう馴染みあるテーブルで、正面から人に見られもしなければ、省スペースで壁に向かって食べるのを演出させている。私もカフェなどで利用したことはあるが、都会の喧騒から一時でも隔離される心地はして、短時間ならば見た目よりは窮屈でなかったりする。京大生にも人気というか、当学生の要望であったとのことで、「ついたて」があれば食堂に行きやすくなる学生は多いのだろう。なくていい人は全てがそうなったわけではないので、選択肢は増えているし、一人で食堂にきた人はその「ついたて」席へと追いやられるわけだから、今までの食卓は前より広々と使えることだろう。だから「ついたて」を導入したからといって学生からクレームがあるわけではないし、一部学生の意見を取り入れたわけで歓迎されて利用者は増えたのだと思う。大学内にもグローバル企業がじゃんじゃか入ってくる時代なので、慣れたものであって大学生協が営業努力で、食卓に「ついたて」をしたからといって、誰も不思議に思わない。朝日新聞の記者は、その出来事を『「ぼっち席」で気楽にランチ』と題して、その席を利用する学生に添うような形で批判的にではなく好意的に取り上げていた。そこに京大系の臨床心理士がコメントして、時代の流れだと一般化して認識させるような記事である。独立行政法人化して、国公立大学が金儲けをするようになって久しいが、ついには京都大学の食堂にまで稼働率を求められるようになったとの皮肉をいってなじっているようでもない。「ついたて」には賛否両論あるが、とかく学生には気にいられている話である。大学生協側の稼働率を良くしたい思惑と、学生側の一人で行っても利用しやすくさせて欲しい思惑が合致した今流行りのwinwinの関係とかいうハッピーな記事にしたかったのか。しかし、どこか冷めた目線でこの記者がどこから見ているのかわからない、それこそ「ついたて」越しに学生を観察したような内容であった。

私はここではないが、学生食堂に一人で行って食べにくかった経験をしたことがある。それは仲良くしたかったのではなく、人から変に思われたくなかったのだった。それでも、一人でご飯を食べることが、人から変に思われるのなんておかしなことだし、自意識過剰じゃないかとなだめて、大きな食卓に座り食べ物と向き合ったことが幾度とあった。あの時、食堂の飯が、もう少しでも美味しければもっと救われたかもしれないが、その時の飯は美味しくなかったとしか覚えていない。といって、「ついたて」があれば良かったとは思わなかっただろうし、便所の個室で食べなくてはならないようなこともなかった。「ついたて」は一人でいる人に優しくみえるが、一人であることを許してくれる装置ではない。一人であることを隠蔽し、その結果一人であることをそこ以外でより恥ずかしくさせ、それでまた陰で一人にさせるような一人でありつづける循環を生む装置である。「ついたて」ができたから便所でご飯を食べるような思いをする人が減るわけではない。むしろ、そのような思いをする人を増やす装置である。そして、引きこもりもそうだが、一人でいる長い期間の間に奮起していつか理想的な形で人に出会いたいと考えるが、ハプニングでもない限り、一人である循環の中では出会いは訪れはしない。しかもこの一人であることの装置は、人と付き合うには誰から見ても仲良くあらねばならない、迷惑をかけてはならないという強烈な同調意識の上に成り立っている。「ついたて」を用意してもらわなければ一人になれないのだ。私たちは「ついたて」越しに一人にさせられ続けるし、一人であることはいつまでも公によって許されることがない。そして、その恥か罪のような意識から逃れられるのも陰で一人になる時なのだ。この一人であることの「ついたて」装置は、例えば人と違った感覚をもってそれを面と向かって相手に表明することは、その相手ではなく世間が許していないと考えていいものだ。ご存知だと思うが、ニュースタートでやっている「鍋の会」も大きな食卓を囲んで食べる。もしそこに一人一人「ついたて」があれば、もはやそれは「鍋の会」でなくなってしまう。「鍋の会」でもっとも大事なことは他人への関心である。自分とは違った感覚をもった他者への配慮であって、その他者を知らずして遠慮することではない。私たちは「ついたて」運動に抵抗していくつもりだが、鍋の会にその「ついたて」が登場すれば、たぶん朝日新聞が大阪駅前で号外を配るだろう。

同じテーブルに知り合いがいれば、なぜ隣同士で話しながら仲良く食べることができないのかと、誰かに見られているようで気まずくもある。だから、「ついたて」があれば無関心さを装える、無関心であることを許されそうだといった感覚は分からなくはない。だが、無関心であることと知性とは一緒にして考えてはならないことだ。かつて京大生はバリケードを立てて闘ったが、今度は食堂の一人一人の「ついたて」を取り払って、無関心さや同調意識と闘うべきであろう。

2013,8,12 高橋淳敏

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